映画「聲の形」ディスコミュニケーションについて~あらすじと考察~

この記事は映画「聲の形」(こえのかたち)のあらすじを含めた感想、考察を記したいと思います。

ネタバレが含みますので閲覧にご注意ください。

少し長い記事になりますがどうぞお付き合いいただければと思います。

「聲の形」(こえのかたち)から感じた感想、考察「相互不理解」について

「ディスコミュニケーション」と英語で言うとわかりづらいですが、言葉は和製英語です。意味としては「相互不理解」となります。(dis-communication)

映画「聲の形」から感じた私のいち個人的な感想、この映画はディスコミュニケーションについて考える作品となりました。

いじめがテーマな部分もありますが、「聲の形」から私はお互いの気持ちの方向、向き方、人との対峙の仕方を考える部分がありました。

なぜディスコミュニケーションと考えたのか、

人と接する上では自分のことをわかって欲しいと多かれ少なかれ多くの人が感じる部分だと思います。

でもこころの方向が、向かう先が食い違うと人間関係はうまくいかない。

そしてうまくいかない人間関係についてあらためて考え直すことができた作品となりました。

あらすじになります

映画「聲の形」のあらすじを簡単に書きますと主人公の石田 将也(いしだ しょうや)は小学校時代、ガキ大将としてクラスの中心的存在でありました。(以後石田君と記載します)

小学校6年時にヒロインの西宮 硝子(にしみや しょうこ)が転校してきます。(以後硝子と記載いたします)

硝子は先天性の聴覚障害でした。

石田君を中心としたクラスの雰囲気は聴覚障害を持った硝子が転校してくることで、空気も含めて変わりはじめます。

石田君はしだいに硝子にちょっかいを出しはじめます。

石田君を中心に植野(黒髪の女の子)や他のクラスメートもいやがらせやいじめに加わります。

いじめはしだいにエスカレートしていきます。ある時、硝子の補聴器を無理やり耳から外した石田君の行動は、硝子の耳から血が流れてしまうほどに傷つけてしまうのです。

硝子へのいじめがやっと問題化され、学級会で石田君のいじめがクラスで糾弾されます。

植野、島田、川井、いじめに加担した他のクラスメートはいじめの責任を全て石田君のせいにします。

そして補聴器の件をきっかけに硝子は転校します。

石田君がその後、こんどはクラスのいじめの対象となっていきました。

石田君はそれ以降、中学でも高校でも孤立します。

高校生になった石田君は過去の罪を清算しようと過去壊した補聴器のお金170万円をアルバイトなどで貯めて、母親に返しそして自殺を考えます。

死ぬ前に小学校の時にいじめた硝子のところへ会いに訪れるところで物語は進んでいきます。

この物語で感じた「相手のそして自分のこころを覗く」こと

たしかに物語のはじめはいじめがメインの描写がありますが、この映画からコミュニケーション、人間関係の部分について私は感じました。

人と人とが解りあうことの難しさ。

この映画の最後の部分で石田君は硝子にこう言います。

「俺さ、たぶん君のこと都合よく解釈してた。もっと話がしたかったんだ、君と。」

と伝えました。

そして、硝子は硝子なりに自身の存在がクラスの雰囲気を悪くさせていたことを感じていた。しかし話すことができなかった。本当は苦しい場面も、無理に笑顔をつくってやり過ごす。無理に笑顔をつくることで自分を防衛するしかなかったのだと思います。

石田君の「もっと話がしたかった」というのは、これはおそらく小学校の時、最初に硝子に会った時にも感じていたのだと思います。

何年も時が経過し、石田君自身がいじめの対象となって、やっと本人も硝子に対しての気持ちに気づき、それを彼女に伝えることができた。

私にとってここの描写の部分は救いでありました。

相手のこころの内側の本質を探ってみることの大切さ。

この物語で一番強く感じた部分でした。

他クラスメイトの植野も最初は硝子のことを心配しているように感じましたし、

石田君も、

「おまえさぁ、もっとうまくやらねーとうざがられちゃうんじゃねーの」

と硝子へ言う場面があります。

硝子がクラスに来たことで、周りの微妙な空気の変化にみな戸惑いがあったのは事実だと思います。

大人になった私たちなら、少し落ち着いて考えることもできた部分かもしれませんが、
まだ幼く小学生であった彼らたちには、少し難しいことだったのかもしれません。

もちろん、聴覚障害をもった硝子も転校してきたばかりの新しい環境で十分なコミュニケーションをとることもできずに、必死だったと思います。

どちらかといえば、

このいじめが生んだ人間関係の状況っていうのは、

こころの向かう方向が互い違いになってしまっていたからだと感じますし、
それは、硝子に聴力の障害があったなかったに関わらず、他の人間関係でもみえる模様だったのではないかと思います。

私のことをわかって欲しい⇒

⇐私のことをわかって欲しい

どんな人間関係も私が私がというところだと、少ししんどいというか、お互いのことを深く理解するのは難しいところがあります。

実際にお互いのことが理解できるのって、

あなたのことが知りたい⇔あなたのことが知りたい

こういうところで深くわかりコミュニケーションがとれると思いますし、理解をすることができると思います。

この作品は障害のある硝子に対して石田君のとった行動に焦点があてられがちですが、

気持ちの向かう先の方向について他クラスメイトだった、

植野(うえの)も言っておりますが、(黒髪のはっきり言う女の子)

「小学校の時さ、私はあなたへの理解が足りてなかった。でもあなたも私のこと理解しようとしてなかったよね」

硝子 障害がある、不安を抱えている。不安を少しでも払拭したい。ノートを使って自分のことを知ってもらいたい。

硝子の理想、みんなと仲良く平和に過ごしたい。
みんなと同じように過ごしたい。

石田君 障害がある硝子に対してどこか不安を抱く、どう扱って良いのか接して良いのかわからない。

私は石田君の性善説についてこの記事では触れませんが、石田君もはじめから硝子を傷つけるつもりはなかったのではないかと。

ただその不安をどう扱って良いのかわからなかった。
植野を含めたクラスのみんなもそうだったと思います。

いじめに走ってしまった。

相手を理解することをあきらめた。

それがディスコミュニケーション(相互不理解)のように私は感じました。

硝子もディスコミュニケーションだった。

みんなと仲良くしたかった。

硝子なりの理想の気持ちがあって、優しさがあって、それはちょっと頑固なところもあって、みんなにとってはそれは少し押しつけがましかったかもしれません。(ただ、硝子はみんなのことを知りたかった気持ちもあってノートでコミュニケーションを測ろうとしてたのですが…)

こころの方向が

私は私は、俺は俺は、

そういうところから相手のこころの内側を本質的にみることができなくなってしまった。

本質的なコミュニケーションをとることを拒否していた。

だからディスコミュニケーション(相互不理解)と表現しました。

 

映画の冒頭の部分、国語の授業での音読のところでもそれは感じました。

どんな内容の本の音読だったのでしょうか。ただ、映画で読んで表現したのには意味があったのだと思います。

植野と硝子が音読した部分を引用させていただきます。

植野「僕は悪くないだから絶対にごめんなさいは言わない」

硝子「いい加減意地を張るのはやめなさいよ」

植野の硝子に対しての気持ちを表している気がしましたし、少し頑固に見える硝子の気持ちもこの音読の部分から感じました。(植野、硝子それぞれ自分自身に対して向けられた言葉のように感じました)

 

ただ、硝子はどう考えたって被害者でありますし、彼女に全く罪はないこともあらかじめお伝えしておきます。

硝子から伝わってくる優しいこころは、生まれながらに聴力が弱いという境遇から生み出された部分であります。それは硝子のとても素敵な個性だと思うのです。

自分の気持ち⇒

⇐相手の気持ち

これだといつまでも解かりあえない。

それはどのコミュニケーションでも同じだと感じます。

年を重ねるごとに人はそんなこと気づいてきて、自分の性格に合う人、合わない人、そうやってなんとなく気づかないうちにいつの間にか人を選んで人間関係を構築していくのだろうかと。

しかし「聲の形」はこころの方向は違うけれど、

人間関係の苦しさの中で、本音で話すことの凄さを教えてくれました。
ふだん「うわべ」だけの人間関係の中では到底見ることができない景色を描写していました。

だって、ふだんの生活の中で言葉でぶつかりあったり殴りあったりそんなこと人生の中であるのだろうか、できるだろうか…?

良いように言えば「空気を読む」って綺麗な表現かもしれませんが、それって本当は何も相手のことを解ろうとしてないんじゃないかって感じました。

 

数年前、私の人生の中で数少ない本音の気持ちを人から言われる場面がありました。

嫌なことだったので記憶が曖昧ですが、過去の職場の人と久しぶりに会ってお酒を飲む機会がありました。(言葉の記憶があまりちゃんと覚えてないのですが)話の流れの中で、

「〇〇はほんとうのことを言わないからだから嫌いなんだよ!!」というような事を言われたことがありました。(〇〇→私のこと)

なんでそういう話しになったのかは、はっきりおぼえてません…。文字におこすとそんなにキツくありませんが、口調は、はっきりしていて強かったです。その人は私を面接し雇った元上司でした。一緒に働くにつれてどうしても周りとのコミュニケーションがうまくできなくなり、私は職場で苦しみました。元上司が全て原因というわけではなく職場の他の人間関係も含めてうまく行かず、私はおかしくなってしまいました。

私はこころを壊し、いつしか情緒もおかしくなっていたんだと思います。どうしようもない心理状況の中で仕事中にその上司に呼び出され、他に誰もいない会社の会議室で涙をボロボロと流して話をした相手でした。(あの時はこころがだいぶまいっていたので、まさか人前でボロボロ涙を流すなんて思ってもおりませんでした。)

気持ちを抑えて人と接していたのでしょうか。

私は後にも先にも久しぶりにあった元上司から、話の流れで嫌いだ、などと強めの口調で言われて売り言葉に買い言葉ではありませんが、

「じゃあ、その後、私がどのような気持ちで過ごし、そして今までどうやって生きてきたかなんて私の何をしっているのか?そんなこと言われる筋合いないし何知ったような口きいているのか!」

そんな内容のことを言い返したことがありました。

その人以外にも他に昔の職場の人が二人いましたが、

シーンとしてしまいました。

場は気まずくなり、私は終始飲み会で黙りもうそれ以来そのメンバーとは連絡もとってないですし音信不通です。

でも大人になってから人に対して強く声を荒げたのって、後にも先にもその時だったなと思い返します。

その後で連絡を絶った私の行動は相手に対して「ディスコミュニケーション」でしたし、大人になればそうやって逃げることもできます。

「聲の形」は逃げずに、ほんとうの相手のこころの内側の覗く結末を教えてくれた作品でもありました。

私は人間関係について思ったのですが、

あまり良くないパターン

こういうパターンの場合いつまで経っても解りあえませんし、相手に向かう方向が「自分が自分が」となっているので良い人間関係は作れない。気持ちが交差しないですし交わりません。

理想とおもうパターン

この状態のような感じが良い人間関係であり理想であり、本来あるべき姿なんだと思います。(でもそんなに簡単にできないから人間関係って難しいのですが…。)

「聲の形」で感じたのですが、硝子も障害を持った私のことを知って欲しいという気持ちが強く、石田君を含めたクラスの者もこっちの空気を読んで欲しい、わかってという硝子に対しての気持ちが強くて、結果、いじめという最悪の結果になってしまったのだと思います。

しかし物語を通していくことで、最後は、硝子も石田君もお互いを解りあおう、知ろうとしますね。

これが本来あるべき部分であって、小学校の時にこの感じがあれば二人の展開は違っていた気もしますし、それは私たちのふだんの人間関係でも考えるところでありました。

 

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苦しい部分の描写について感じたところ

「聲の形」を観て、それで避けて通ることのできない「いじめ」の部分の描写についても、少し言及さえていただければと思います。

はじめにディスコミュニケーション(相互不理解)の部分を記載させていただきましたが、

私もかつていじめられるという経験をしたことがありました。中学に上がる頃の塾ですとか、中学校ですとか、まあ、色々なところで、職場で感じる部分もありました。

それで、じゃあなんで先ほどのディスコミュニケーションの部分をお伝えしたかと言いますと、

これは月日が過ぎた今だから思うことですし、当時は苦しくて苦しくてしかたなかったのですが、それでも少し傷をえぐるように思い出し考えたので、お伝えさせてください。

じゃあなんでいじめられたか、もちろん、そういった悪意を抱いて接してくる人っていうのは決して認めてはいけないです。あたり前の大前提です。

ただ、私も思ったのですが、そのような人たちに対して、それこそ、「理解が足りてなかった」のかなと今となっては思うところもあります。

「ああ、この人苦手、怖い」関わりたくないし、私が知って生きてきた中では全く別の次元の存在だと感じてしまう。

そうしてディスコミュニケーションを試みる。(相手を理解しようとしない)

この部分ですでにこちらも相手に対しての偏見があったのだと感じます。

それは子供だったりするとなおさら価値観が狭く、自身の理想や生活環境から生まれる考えに固執しがちです。

だからそんな拒否反応も相手に伝わる。

性格が自分よりも強く、立場も強ければ相手は異物質とこちらを認識してつぶしにくる。

そんな構造があったのじゃないかなって今となっては思ったりしました。

いじめられてる時って最終手段として笑うしかなかったんですね。硝子のように。「あなたのことを攻撃するつもりはないんです。だからおなたもこちらを攻撃しないで。」って伝えるしかなかった。

まあ、そんな傷なんて知らなくても良い気もしますが、それでも過去の経験で得た傷なりに感じたことでしたので記させていただきました。

※そんなこと理解できなくて「今」がつらいと思う人は全力で逃げて良いですし、本来ならコミュニケーションをとる必要なんてありません。無理だけはしないでください。時間が経ったから思えたことでありますし私がその時に、ああ、これはディスコミュニケーションなんだって冷静に考えることなんて到底できやしませんでしたし…。

ただ、いじめの描写については、映画から考えた部分があったので、お伝えできればと思い少し記させていただきました。

そして、時間をおいて、相手を理解しよう(とできたかな?)とする、もしくは、「まあ相手は相手なりに何か理由があってそうしてるんだな」って思ったりすると見え方も、そして少しお互いに感じる空気も変わるものです。

要はお互いに認めて欲しいのです。人間って面倒くさいですね。こういうところはほんとうに。

どちらもが拒絶してたとしたら、こちらから認めてあげるしかないんじゃないかなって。
(でも嫌なものは嫌なんですけど、自分と違う価値感があるってのはわかっても良いんじゃないかなとは感じます。)

 

硝子はいじめられても、石田君を認めてあげてました。

残念ながら小学校時代に二人の関係がうまくいくことはなかったですが、石田君は小学校の時に、いじめてもなお認めてくれた硝子に対して高校生になって月日を経過してから歩み寄ります。

やっとお互いの事を知りたいって思えたんじゃないでしょうか。

過去、嫌だった人間も、じゃあ、自分のどこが嫌だったのかな、ああ気づかないうちに相手のことを拒否していて、それが相手に伝わって、それでそんな関係になったんだろうと。

全て理解するっていうのは難しいですが「顔」をみることで×を消すことで相手を受け入れることもできたのだろうかと考えます。

硝子と石田君のような恋愛関係にならずとも、

時には、自我を捨てて、自分の世界の概念を捨てて相手をみることも必要だとも感じました。

それでも繰り返しお伝えしますが、「緊急を要するもの、ストレスになるもの、こころや体がおかしくなるもの」に対しては逃げても良いと思いますし、実際にこの映画でも硝子は転校しております。

「聲の形」は「コミュニケーション」の物語であると感じました。

西宮硝子の心象ともうひとつ感じる映画のテーマ

硝子について感じるところは、小学校の時、石田君からいじめられてもなお、ごめんなさいとノートに書いて、そして手話で「友達になってくれませんか」と石田君に言っておりました。ただ、この時は手話のわからない私は、そして石田君も、硝子が手話で何を伝えているのか理解できませんでした。

疑問のままでしたが後でその意味がわかります。

この描写は好きです。

なぜなら、罪悪感を背負い生きてきた石田君が自殺しようと考え、硝子に会いに行った時に「友達になってくれませんか」と石田君が硝子に手話も交えて同じ言葉を話したことで、小学校の時に、硝子が石田君に伝えたかった気持ちがやっと理解できたのですから。

硝子は、映画の中で描写されている小学校時代のノートにはことあるごとに「ごめんなさい」の文字が見えました。

きっと生きづらかったのだろうと。

この物語のもうひとつ感じた部分ですが、

「罪悪感」の部分について。登場する人物の多くは、罪悪感を持っているように映りました。

硝子もそうだと思います。耳が聞こえないという部分で迷惑をかけてしまった。石田君を含めたみなの関係を悪くしてしまった。

植野と観覧車の中での会話も、硝子は「自分が嫌いです」と言っておりました。

植野を含め、他の登場人物も、西宮硝子を過去傷つけたことに対しての罪悪感を持っている。

この物語は硝子を通して生まれた、過去、欠損したコミュニケーションを埋めようとした物語でもあるのじゃないかと感じました。

石田君に対して最初、結弦は「偽善者なの?」と言っておりました。植野も「良い人ぶっているの?」って言っておりました。

しかし、石田君の行動は、過去、硝子に持った罪悪感に対して「良い人ぶる」「偽善者」の態度をとるのとは違う気持ちがします。

また、硝子は石田君を含めて、過度に人に対して優しく寛容でありました。
あんなにひどいこといをされた、石田君を受け入れたように。

それは裏を返せば、硝子自身の自らに対しての自信のなさの現われでもないのかと。

当然、耳が聞こえないという生まれ持った障害の部分では仕方のないことなのかもしれませんし、そのギャップが周りとの溝を生んでしまった気もします。

優しいところも硝子の良いところで、硝子の生まれ持った経験だからこそ、周りに対して優しい、寛容な気持ちになれたのかと。だから硝子の立場から遠い私はその優しさに、少し優し過ぎると戸惑いを覚えるのかもしれません。

「聲の形」の私なりの人間関係ですが、お互いの考えの違い、生き方の違い、なんとなくですが、気持ちの違いを考えた時に下記のようなバランスに思いました。

これはあくまで私の個人的な主観ですので、「聲の形」のファンの方では、これは違うだろうという意見もあることは承知の上になります。

ただ、なんとなく、あくまで私の「苦手」、「好き」(好意的に見れる)パターンというのはこんな感じであり、主人公の石田君、ヒロインの硝子を中心として、物語の中でもシンメトリーに映りました。

このシンメトリーになっている人間模様、性格の部分が、ディスコミュニケーションを表していたのかなと思います。

これら相対する関係は、お互いの違いを覗かずに理解しないままの部分だったのかと感じました。

 

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妹の結弦の存在について

物語の中で私の気になった登場人物で、硝子の妹、結弦(ゆづる)についても少し触れたいと思います。

結弦は当然ですが、最初、石田君のことを良いと思いませんでした。「偽善者なの?」姉の硝子を小学校の時にいじめた相手ですから、時間が経って現れた石田君にそう思います。

でも、結弦が硝子と喧嘩をして家出をして、たまたま石田君と会い、石田君の家に訪問した時に、彼の別の側面に触れたのですね。

それは石田君の母であったり、マリアであったり、

家出した結弦を、雨が降る中送り届ける場面ですが、石田君の差し出した傘を持って帰る部分で、石田君を受け入れたのだと感じました。

そして、結弦がカメラで映していた写真ですが、硝子が小学校の時に結弦に対して「死にたい」と話し、硝子の当時の気持ちを知った結弦は、姉の硝子が死にたいなんて今後、思いたくないように、動物や昆虫の死体を写します。

姉(硝子)のことを心配するばかりに、自分のことを考えない結弦。

中学校にもいかない結弦は、結弦自身に対してディスコミュニケーションだったかと感じました。

結弦に対して、おばあちゃんが言っていたように

「ねえちゃんのことばっかで自分のことをちっとも知ろうとしない」

ディスコミュニケーションは対「人」だけでなく、「自分自身」に対しても存在するのだろうって。

小学校時、笑顔に隠された硝子の背景には死にたいという気持ちが隠されていた。
石田君も過去自分がしてしまったことに罪悪感を感じて死にたいと思っていた。

そんな二人が高校時に再開します。

 

二人とも死のうと思っていたのですが、生きることを選ぶ。

「君に生きるのを手伝って欲しい」この物語の意味につながります。

「聲の形」は生き返る物語だった まとめになります

「聲の形」は遮断したものを、お互いに理解しようとすることで、それぞれが再生していく物語だと感じました。

硝子の劣等感、石田君の罪悪感、その他小学校のクラスのメンバーたち、そして結弦。

本音を話すことで、お互いのことを、そして自分のことを理解しようとする。

特にこの物語の中心人物である、石田君と硝子、死のうと思っていた二人が、生きようとする。

結弦もそうです。ずっと行ってなかった学校に通い始めます。

結弦がフォトコンテストで優秀賞を受賞した写真っていったい何を写したのだろうか?と感じました。
動物の死体でもありませんし、植物?草木と花が咲く写真のあの意味は少し不思議です。

ただ、わかることは、コンクールで選んだ写真は、硝子とお母さんが勝手に選んで出した写真でした。

結弦がよく撮った動物や昆虫の「死」の写真ではなくて、それとは反対の「生」がテーマの写真、姉の硝子はそれが好きで、結弦の本来持った、性格の良い部分も含めて表現していると感じ、勝手に選んで応募した写真なのではないかと思います。(おそらくですが鳥の死骸がなくなった後の草花が生えた写真なんだと思います。死からの生への再生でしょうか。)

映画の最後、文化祭でのシーンで植野と硝子との描写ですが、植野が硝子に対して「バーカ」って覚えた手話で伝えますが、言葉の意味とは別に手話を正しく教えようとする硝子に植野も根負けしてしまいます。

「聲の形」のすごいところは、おそらくたぶんですが、実際の生活の中では、きっと疎遠になっていただろうと思う人間模様も「最後まで向き合ってみた」結果を教えてくれた気がします。

きっと私が今まで生きてきた中で苦手でダメだとあきらめてディスコミュニケーション(相互不理解)をしていった人たち。

たくさんおります。いまでもいます。

だって、あんなに本音の会話が私の実際の生活の中であったら泡を吹いて気を失ってしまいそうです。

実際の人間関係ではかなりしんどいと思いますし、本音を話すなんて今でも怖いですし、やっぱり苦手な人は避けてしまいます。(そもそも人間関係が苦手です)

でもそんなしんどい部分の本音で向き合った結末をこの映画では写してくれるのです。

また、重要なポイントで登場人物もそれぞれ良く、再会しました。

例えば、家出をした結弦が石田君と公園で会う場面。植野がアルバイトで配るビラに石田君が反応する場面。植野、石田君、硝子が横断歩道で一緒に会う場面。

ここはアニメや映画などの物語だからできる手法だと思います。

そうやって再会して、自分の気持ちを伝え、過去を話し、贖罪することで、

「生き返ること」を教えてくれた映画でもありました。

 

映画のラスト、最後では今まで哀しい笑顔に映った硝子の笑顔も、最後はほんとうの硝子の笑顔で終わったと感じました。

 

ここまで長い記事を最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

追記:この映画はほんとうに難しいと感じます。私の記事も読む方にとってはとんと的外れになるかもしれません。どのアニメや映画もそうですが、「聲の形」は繰り返し何度も観ることで解る部分がたくさんあると思います。きっと今後も何回も観直すことで新たに気づくことがたくさんまだこの映画にはあると感じます。記事も修正が入ったり、もしくは他の記事でお伝えすることもあるかもしれません。その時にまた記事を更新させていただけたらと思います。

※NHK Eテレ 2018年8月25日(土)21:00~(予定)です。もし未視聴の方がいましたら、ぜひご視聴ください!

 

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