『余命10年』感想 違和感があっても生きるを考えさせてくれた小説

死生観も含めて、生き方を考えさせてくれた小説

小坂流加さんの小説『余命10年』を読書いたしました。

この小説は主人公の茉莉(まつり)が二十歳の時に遺伝性の難病を患い、余命10年と宣告され、残された時間を茉莉がどうやって生きて行くのか記された小説です。

「余命10年」は途中で小学校の頃の同級生、和人(かずと)と地元の同窓会で知り合い、恋に落ちる。その部分も恋愛小説としてとても魅力に感じましたが、あくまで、私、個人としては、残された10年を主人公の茉莉がどうやって生きて行くのか、

仕事も、そして恋愛も様々なものをあきらめるしかなかった主人公の茉莉から考えさせられる、生き方というものを読後の感想として記させていただければと思います。

この小説は余命10年の女性が、恋人に病を隠して恋愛をするという、単純な恋愛小説というよりは、死生観を含めた人間の生き方、人生観を考えさせてくれて、そして教えてくれた小説でありました。


余命10年 (文芸社文庫 NEO こ 5-1)

内容はタイトルをみると重たそうですが、「余命10年」から感じたところは、病気の苦しみや闘病に物語の重心があるのではなく、残された10年をどうやって生きるのか、茉莉を通して、私たちのふだんの「生き方」を考えされてくれる内容でした。

実際に小説の中で、茉莉が病気で苦しむ描写、痛みなどの表現は少なく感じ、どちらかというと、生活する中で明らかに周りと違う「違和感」を持った主人公が「生」、そして「死」に対して向き合いながら、考え、感じたことを伝えてくれる小説でした。

なのでこれは、いち個人的な感想になりますが、例えば病気を持っているですとか、そういう部分だけではなく、なんとなく、ふだん周りと自分は違うかなと「違和感」を持って生きてる方が読んでいただくと「余命10年」から出会える感情があるのではないかと思います。

この小説を書いた小坂流加さんも「余命10年」では、死生観、人生観の部分で伝えたいところがあるのかなと感じました。

「余命10年」から感じた、共感した部分(ポイント)

「余命10年」というタイトルに惹かれて手を取ってしまった理由、それはたまたま訪れた本屋さんのお勧めの棚にあったという理由もありますが、実際に私が去年の6月頃に体調に異変を感じ、これまで生きてきた中ではじめて「死」というものを考えた出来事も影響しておりました。(過去記事で触れてありますが少し暗い話になりますので、この記事ではあまり深く触りません。)

おそらく「死」に対しての考えがなければ、本屋さんの棚からこの小説のタイトルが視界に入ったとしても、脳がタイトルを認識しなかったのではないかと思います。

だから本屋さんで目にすると、「なんとなく惹かれる本」が実際ある経験は、いつも不思議な感覚だと思います。

本棚をながめて、今感じている私の中の思考とタイトルがリンクするとその本との「縁」があるのだろうかと思うばかりです。

主人公の茉莉は、余命10年と宣告されたところからすでに物語がはじまりますので、読む側としてもはじめからその「覚悟」で読み進めます。

幸せに満ちた生活をはじめに描いて、主人公が病で突然崩れるという悲劇的な展開ではなく、もうはじめから決まっている事実、そこから始まる物語が死生観を最初から意識して読む内容となっておりました。

主人公の茉莉(まつり)から共感した部分ですが、何点かあります。

  • 主人公の茉莉が物語冒頭でアニメを通して救いを求める
  • 生きている中で常に死というものを意識して生きる
  • 人にあからさまにそのことを言えずに隠して生きる
  • 生きるなかですでに色々なことをあきらめざるをえない
  • 恋愛についてもあきらめる

あらかじめお伝えしますが、全て茉莉と同じ状況かと言ったら明らかに違いますし、小説での茉莉の状況はもっと私の境遇よりも深刻です。ただ、それでも「余命10年」から感じた「同じような気持ち」の部分をポイントを記載させていただきました。

 

まず、病気と知って残りの10年の命を考えた際に最初に茉莉が出会うアニメという世界について、

以下引用します。

入院期間が延びていくにしたがって、見るものの中から殺人事件ばかり報道するニュースが消え、笑えもしないバラエティが消えた。同世代が主人公になり「これが世間の20代」と決めつけるドラマが消えた。残ったのがアニメだった。アニメだけは仮想でいられたし、アニメだけはプレッシャーを与えてこなかった。

「余命10年」(P28より引用しました。)

何度も言いますが、茉莉と同じ境遇ではありませんが、この小説の最初で茉莉が夢中になるものについて触れられた部分でいっきに主人公の茉莉に同調し、惹かれていき、余命10年を読み進めた部分でもありました。

私もいつしか、ニュースもバラエティもドラマもとんと見なくなってしまっておりました。ただアニメは見てしまいます。むしろアニメにこころが移っていったかのように。「仮想」「プレッシャーを与えてこない」この表現の部分は少し自身の思考に向き合うと気まずくなりましたが(プレッシャーから知らずに逃げてるのかなっておもったりなど)、しかし的を得ている表現だと感じました。

ニュースも勝手に流れてくるCMもみんな押しつけがましくて私はほんとに見るのがダメになりました。いかにもこれが世間の標準であり、スタンダードであり、万人にとっての価値観であり、ひいては幸せである、そんな表現が見ていて苦しくなるのです。

要は生きている中で「本当に必要な情報なのか!?」そう考えてしまったら、何か深読みではないですが流れてくるものの裏に隠されている背景を考えてしまうといつしか全く興味を示さなくなってしまいました。

茉莉にとって、死を意識した生の中では、現実のニュースもこうあるべきというドラマの設定も大切な情報ではなかったのだろうと感じます。

しかしアニメの世界というのは、良い意味で現実逃避をさせてくれます。本当に必要な情報かは別として、少しつらいかなという現実に目を逸らさせてくれるもの、私にはそんな存在です。あり得ない展開も全て「あり」でたとえ仮想としても、そんな思考があるのだなと思うと気持ちを救ってくる場所であることも確かでした。

このポイントでまず主人公へ引き込まれました。

その他の部分ですと死を意識して生きる部分、「10年」というところ、ここが去年疑われたリンパ腫というものが進行が遅いタイプのものでも、もしほんとうにそうならだいたい10年ぐらいの命というのを読んだところもあります。

茉莉と同じように10年しか生きられないとしたら、私もどう考えるのかなと。

私の場合は断定ではありませんが、十分に考えるところでして、今でも怖くて、砂糖を摂ることやお茶などを飲むことができなくなるほど強烈なできごとでした。もちろん、たばこも止めましたし、お酒も元々強くなかったですがもうほとんど口にしません。

またリンパ腫を疑われる状況であった体の部分について、ふだんの周りの人に話すこともありません。なんて言っていいかわからない、言ったところで「・・・」ですし、そういう不安を抱えているとカミングアウトしたところで回りの空気は重たくなるのは明らかです。

暗い人だなとか思われるのも心のどこかにあったりします。

そんな状況のなかで、いつしか生きることについて多くの希望をいだくことができなくなってしまいました。

これは特にですがふだん生活している仕事場の部分でしょうか。

仕事なんて、多くの人がそんなの当たり前と思っている部分かもしれません。生きている中での多くの部分を占める仕事の時間、そこにやりがいや何かを求めているというよりは、もうただ漠然と淡々とこなす。最近私にはそれが、要は時間の無駄使い、生への無駄使い、多少のお金は入ってくるかもしれませんが正直それだけ。

明るい職場、みんなと仲良くの職場、自己を成長させてくれる職場、

そんなものは「建前」であり、仕事の日常に多くをとられて生活しているのは、少しうすら寒くすら感じるのでした。

そして、毎日気持ちを抑えて生きていたら、段々心が死んできてしまいそうでした。

このブログ書きというのは、こころを整理する部分でも、気持ちを伝える部分でもとても大切なものになります。

恋愛についてあきらめた部分も、体の自由があまり効かない、思う通りにコントロールできない。ここ一番のところで体調を崩す。

そうしていつか及び腰になって、大切な人に何も伝えられないままにいつしか終わってしまっておりました。

余命10年を読んで、茉莉から感じた、まわりとの違和感を持って生きる部分、共感した部分、それは、今更ながら、ああ、「アウトサイダー」であるのだなとなんなく思っていた気持ちを気づかせてくれる部分でした。

 

ただ、「余命10年」を読んで感じたのですが、この小説は、病気から生まれる心の違和感を伝える部分もありますが、むしろ「違和感」をもった人間が、じゃあどうやって生きて行くのかも考えさせてくれた小説でした。

今を生きている人にもお伝えできること 幸、不幸ではなく

では、この小説「余命10年」で感じた、死生観の部分について、

死生観という表現が正しいのか人生観と言えばいいのか、生き方について、

茉莉は余命10年と知ったうえで残された時間を生きますが、死が確定してない場合との死生感とではどう違うのか考えました。

ほとんどの人が残りの生について意識して生きている方は少ないのではないかと、少なくとも、まだ私のまわりのふだん会う人たちからは感じられません。

少し補足になりますが、私が狭い視野の世界の人間なのか考えました。

「普通」の生活では垣間見えないだけであって、病院などの世界では死は日常であり、「死」を意識して生活している人はたくさんいるのではないかと考えました。

あと、例えば私がもう70歳過ぎたりして、あきらかに残りの生の時間が少ないとわかっていた場合、茉莉の残された10年の感覚とは違うものです。

茉莉はまだ若くて、周りの同じ年代の人たちが恋愛や結婚や家庭を持つ姿をみて、同世代とのギャップをまざまざと見せられたうえでの残りの生でした。

余命10年の茉莉はテレビから流れるニュースやバラエティ、ドラマなどいわゆる世間の日常からも違和感を抱いていたと感じます。

物語の中では、茉莉の病気の深刻さは、あまり強く表現されてないので、読み進めると、ふだんは元気そうに見えるけど、でもどんどん月日を重ねていつかはなくなるという死、それは同年代の「普通」の生活をしている人たちとはあきらかに違う「違和感」になります。

違和感をいだいて生きること、それが人に伝わらずに、自身の中だけでかみ砕きながら、それでも生について考えた結果、生きることとは、どういうことだろうかと思いました。

「余命10年」の描写の中から感じることがところどころありました。

たとえば、この部分です。

以下引用します。

長い人生を背負った人もまたつらいのだと、その時はじめて気づいた。タイムリミットを知っている自分がどこかで一番不幸だと嘆いていたけれど、途方もない時間を何の道標もなく歩いていかなければならない人の不安も測りしれないのだ。

「余命10年」(P213より引用しました。)

茉莉自身の生き方と恋人となる和人の生き方で茉莉が感じた部分です。

和人が茶道の家元の跡取りとして今後、生きて行き、悩む場面に対して茉莉が抱いた気持ちです。

誰もが和人みたく、家が茶道の家元だとか、そういう特別な「違和感」ではありませんが、茉莉が感じた部分、

そう、この先にリミットがない一般の人間の生を考えたとき、そして私のいつまでかわからない生を考えた時に、じゃあ、幸、不幸って何かなって考えさせられる部分でもありました。

周りとの違和感を持って生きること

周りとの違和感を持って生きることを思ったことってありませんでしょうか。

私の場合は、茉莉ほどの深刻さではありませんが、人との体の違和感を感じる部分がありました。生まれてはじめに感じた違和感は、目でした。もともと体は強くなく子供の頃から片目がウィルスに感染し、症状が再発を繰り返し、もの心ついた時から病院に通い、もの心ついた時から片目の視力はすりガラスを通した世界でした。

生まれついた時からなのでふだんの生活ではたいしたことではないのですが、ここ一番のところで、目の病気が再発(光が眩しくなって真っ赤に充血して涙がボロボロこぼれる)することに子供の頃からなんども悩みました。

最近ではリンパ腫の疑いなど、ここ一番、これから何かをしようって時に迫ってくる病気はいつでも影であって付きまとってくる違和感であり不安そのものでした。

人からはわからない個人的な違和感、あとは肌とかも強くないです。

自身の体感と人からの感覚との違い、

説明も難しいですし、それを話たところで、といつしかそんな思考になってしまっておりました。

そう考えると、今までの生き方とか周りと感じた違和感というのは、あたり前なのかなと、今更ながら感じる部分ですし、

周りとの違和感の溝を埋めようと必死にもがけばもがくほど、そう生きると、どんどん深みにはまっていくそんな感じだった気もします。

茉莉の生き方から感じるところ、

それは、余命10年を過ぎてもなお、違和感を受け止めてまずは生きる。
それでもなお、現実の中で生まれてくる苦しみ。
どうしようもない人間の本能というのでしょうか。
例えば、あきらめていたと思っていた恋をしてしまう。
和人にずっと嘘をついて生きてしまう。
あまりにリアルでした。
そして、あきらめた中で感じる苦しみ、それでも向かい合って生きる。

茉莉の強さがわかります。

私はリンパ腫って疑われた時に、正直、その時、好意に思っていた方に真実を伝えることができませんでした。

あたり前のことです。

そう全てを言ったところで、単純に嫌われてしまったらですとか、ひかれてしまったらですとか、いままでの関係がすべて消えてしまうのではと、そういう部分もありましたが、

ひとことでは言えない色んな感情でした。

たとえばこの先のこと、

だからどこかでだんだん話すことが苦しくなってきて、フェードアウトしてしまいました。

他の仲が良かった人たちも同じです。

言ったところで、個人的に、相手を重たくさせる、悩ませる、ごめんなさい、そんな気持ちになります。

茉莉が和人に対して、友人に対して、抱いた気持ちと似たようなところがありました。

ただ違うところは10年という限られた時間とはっきりしてないところ。

死が確定してないからの及び腰。

死を見据えたうえて、捨て鉢になれば、なんでもできるかもしれないとも感じたりしました。

例えば、茉莉のように、アニメにコスプレに、漫画に没中したりできるかもしれない。

恋してしまった、和人へ対しても、最後は別れを前提として、さよならを言って向きあえたようにそんなこともできたのかもしれない。

茉莉の生き方と対比すると、今の私はなにもかも中途半端なのだと思ったりもしました。

茉莉は二十歳から10年間、死を意識したなかで一生懸命生きた。

例えば、私は日常、働いて生活しているので、茉莉の一年365日は、仕事の日以外に自由に休める時間を含めて考えると、何年になるかと考えました。ほんとに簡単な計算ですが、あと36年ほどでした。(一年に自由に生きれる休みの時間を100日ぐらいと単純に換算すると)

ほんとに単純な計算なので茉莉の10年と私の時間を比べることが正しいのかわかりませんが、

それでも茉莉は私のこの先の36年ほどの時間を10年に凝縮して生きたのかなと、「余命10年」から感じるところでもありました。

死を見据えた生き方から、たくさんのことを経験したうえでの死生観、生き方、人生観を小説で伝えてくれた。

そして、周りとの違和感をもってもなお生きること。

そう、いっそ自分は「アウトサイダー」として認めて生きること、他と違う、違和感があると認めた上で生きることで茉莉がみていた世界と少しは重なってくるんじゃないかと感じました。

私は俺は、人と違うとか声を大にして言うことではありませんが、それでも周りとの違和感を認めた上で生きることで、目から映る日常は違ってくるんじゃないかと。

もしかしたら嫌な現実に向き合うこともでてくるかもしれません。

でも、茉莉は10年という凝縮された時間で、病気になって色々なものを失います。

将来を夢見る力を捨てた。仕事への憧れを捨てた。恋を捨てた。友人を捨てた。愛する人を捨てた。

「余命10年」(P335より引用しました。)

 

このように捨てて生きるしかない状況で、なお、病気で生まれた違和感と向き合って生きてきました。

私たちの多くは死までの時間はまだ決まってないかもしれません。

茉莉と同じ境遇ではありませんが、それでも、違和感がある現実を認めた上で自分はアウトサイダーとして生きること、

少なくとも違和感を持って生きている方は先に引用した部分のどれかに思い当たるところがあるのではないでしょうか。

実際、小説を読んだりする方の多くは、周りとの違和感を知りたい、もしくは埋めたい、そんな気持ちがどこか少しあるんじゃないかとも思ったりします。(少なくとも私はそうです。)

だから「余命10年」を読んでただ、単純に死に対して思うことだけでなく、

今の生き方に対して思うところを感じてみていただきたいと思います。

茉莉が違和感を持って残りの人生を生きること、それは年齢が重なり余命が少なくなるにつれて、変化し、様々な視点があるので、ここが一番のポイントという部分は難しいのですが、

個人的にここかなと思う部分がありますので引用させていただきます。(引用の部分が前後してしまいますがご了承ください)

今一瞬ですべてが叶うことをいつも願っている。
すべては自分で選んで自分で進まなきゃいけないって、いっぱいいっぱい痛い思いをして、その傷でしったはずなのに、心はいつも晴れない。全部手にいれた人って何がみえるんだろう。
わたしは何が欲しい?
ああ時間か。一番いらないものだったはずなのに浮かんだ選択肢。同時に浮かぶあの人の笑顔。
命に執着をもったダメよ。
死ぬことが怖くなったら、わたしはもう笑えなくなるんだから。

「余命10年」(P173より引用しました。)

色々な希望を捨ててもなお、人は生まれ持った生きる感情に支配されているのだなと考えさせられます。

それは本能と表現すればよいのでしょうか。

うまく一言ではまとめらません。

この小説は23章ありますが、章の最後に協調して太字で茉莉の想いを綴った文章の表現があります。残りの命が少なくなるにつれて茉莉の考え方、見え方が変化していきますが、私は上の引用の部分が強調された文章の中でも特に印象に残りました。

「余命10年」読後の感想まとめになります

確かに、茉莉の境遇というのは、通常の世界観、いわゆる一般の価値観でいうと「不幸」だったのかもしれません。

普通に生きていれば若いうちに余命など考えて生活することはありませんから。

しかし、茉莉はその中でも必死にもがいて、考えて、それで10年間を駆け抜けました。

先にも書きましたが、茉莉の10年を私の今の生活で例えるとあと36年ほど。

その中で茉莉ほどの考えに至って最後に死を迎えることができるのかなと読後に考えてしまいました。

「生」って、単純に生きた時間の長さでもないのかなと。

そして「余命10年」から感じたもの。

いっそ私がいままで生きてきた中での違和感というのも、茉莉のように認めてそして生きて行く。例えばですが色々と陰鬱に考える性格ですとか、生まれ持った体の弱さですとか、家庭の環境ですとか書き始めると長くなりますのでこの記事では省略させていただきます。

そして違和感を認めて生きて行く中で、これからどのような景色で生活をしていくことができるのだろうか。

もう良いかな、ふだんの生活からも、周りからも、変な人だと思われても、そこに大切なものはあまりないんじゃないかと感じたりもしました。

周りとの違和感というのは単に身体的な部分だけではないと思います。その人なりに生きてきた過程の中で生まれた感情、心象、人の数だけあるはずです。そんなものが集まって社会というのは成り立っているのだからそりゃ生きにくいだろうなとも考えます。

でも、違和感を受け止めて生きてみることをもう一度考える。

そんなこと出来てきたかなと思うところで、まだできてない。

私はこの小説の読後の感想であるこの記事で、死生観について書こうとしたのか、違和感について書こうとしたのか少しぼんやりとしてしまった部分もあります。

ただ、死生観も違和感もどっちもリアルにある感情、心の中にあることを認めて生きて行ってみる。

単純に、「周りと違う」「苦しい」「どうして違うのか」というところから少し抜け出して、生きていけるのではないかと、それがこの小説に出会って感じた私なりの気持ちでありました。

違和感の中で生きる。

そう、私はアウトサイダーなんだとあらためて認識する。

いつも、こころのどこかにある部分でした。

そしてこの小説からから学ぶこと、違和感ってそんなに悪いものでもなく、認めた上で生きて行くなら違和感から新しい感情に出会えることなのかもしれないと感じました。

例えばですが、こうやって「余命10年」の小説に出会うことができたように。

最後のまとめはこのような形で終わらせていただきます。

ぜひ、周りとの違和感を感じて少し苦しいなって思って生きている方へ読んでいただければ、読む人なりの生き方、見え方、ヒントが「余命10年」の中にあると思います。

小説「余命10年」の読後の感想になりました。

 

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

追記:この「余命10年」の著者、小坂流加さんは茉莉とおなじ病気だったとのことです。本作が編集された直後、刊行された2017年2月に亡くなったと記載があります。だから、この小説はただ、泣く、泣かせる、そういう作品ではない、人のリアルな死生観、生き方について考える作品でした。この小説の文章のところどころから死生観について著者が感じたリアルな描写がありました。「余命10年」は死に対して向き合った感情が記されているものですが同時に生に対してのエネルギーもたくさん詰まっておりました。だからこれだけ余すところなく358ページの中に著者の生へのエネルギーの思いも込められた小説でした。そのエネルギーに吸い寄せられるように、本棚から惹かれるように手にとってしまったのではないかとそんな感じすらするのでした。

 

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6 Comments

宝蔵院月詠

こんにちは、このブログを 読んで ようやく自分の「違和感」と言う物を 知りました。
30年前に結婚して 3日後、配偶者を病で無くし、その後、異性とも距離を置き、今は、私自身も難病にかかってしまいました。
今年 1月からずっと、何もやる気が起こらず、前向きにもなれずに悶々とした日々をただ浪費するだけでしたが、本屋でこの本を手に取り 初めて自分の愚かさに気付き、今日、何となくネットを見ているとこのブログに出会えました。
自分の愚かさ、境遇等など、全てが、「違和感」だったと知り得ました。
本と出会い、ブログとも出会い、これまでに私に付帯してきた「物」を 捨てながら、前向きに残りの時間を生きていきます。
感謝します。ありがとうございました。

返信する
晴色

こんにちは、コメントいただきまして、ありがとうございます。

人に伝わらずに、ご自身の中だけで抱いていた感情(違和感)がたくさんあったのだと思います。
宝蔵院月詠さんの今までと今について、私が短い言葉で安易に何か言って良いのか、
色々考えており、コメントの返信が遅れてしまいました。

いただいたコメントの中で、付帯してきた「物」を捨てるという表現は、なるほどと教えていただいた言葉でもあります。
この小説を読んで、なお、捨てられずに心のどこかに残ってるものがまだあったりするなと、あらためて考えた部分もありました。
人のやっかいな感情であり、でもそれが人間なのかなとも最近感じたりします。

とても丁寧にコメントをしていただきまして、こちらこそ、本当にありがとうございました。

返信する
宝蔵院月詠

御返信ありがとうございます。
どれだけ、心が 救われたか・・・
本当に 人とは、心の生物だなって実感致しました。ありがとうございました。
(感謝しても仕切れないけど)

コメントの中で、とんでもない誤字がありましたので、申し訳ない、誤字修正を致します。
30年 → 3年 です(笑)
私は、何歳だと 突っ込みを入れてしまいました。
ごめんなさい。
本名、難しいので 「月」で 良いですよ(笑)
友達からもそう呼ばれてますので(笑)

返信する
晴色

3年でしたか、月さん、教えていただき、ありがとうございます。
だいぶ長い時を抱えていたのかと考えておりましたが、少し安心しました。
病気の部分は心配ですが、そういった経験が本などを、より深く理解させてくれることもあると思います。

月日の部分の修正も、ご連絡くださりありがとうございました!

返信する
宝蔵院月詠

こんばんは、
「余命10年」に当てられ、今の正直な気持ちを 形にしたく思い、詩を書いて見ました。生きる事の難しさ、苦しさ等を 違和感と言う形で 具現化した小説は、数少ないですよね。調べて見たら 私と同じ病名の方は、国内に1000人程、いらっしゃるようです。各々、症状が違うそうで、中には、重篤の方もおられると思われます。難病・・・全て、無くなると良いですね。担当医のデータを見て 解析して見ましたら、病気を放置すると1年間の生存率 54.7%、医療を受けると92%以上、完治率 0%・・・一生を戦い続ける事を余儀無くなされました。解析、するんじゃ無かった。(笑)「余命10年」の主人公は、死ぬ事が決定してしまってる、この私との差は、計り知れない物があると思います。私が同じ立場であったら 主人公の様な強い心を持てたか?。答えは、否だと言えます。強い心は、どうすれば手に入るのでしょうね。これからは、その事を考えないといけませんよね。私は、昔も今も弱いまま。ダメと分かりつつ・・・過去に未だに囚われています。

返信する
晴色

月さん こんばんは、
コメントありがとうございます。正直な気持ちを書いてくださりありがとうございます。
病気については、体感、不安もふくめ人間なのでどうしても考えてしまいます。
数値を知るとなおさら現実に怯む気持ちも出ます。
ただこの小説の主人公もずっと強い心を持っていたわけでなく、P173の部分ですが「今一瞬ですべてが叶うことをいつも願っている。」おそらくですが主人公は、色々あきらめた中でも、自身の抱いていた憧れですとか理想ですとか、捨てきれなかった部分もどこかあったのではないかと感じるのです。
生きて行く中で人ですから感情の揺れというはどうしたってあると思うのですね。
これから生きる中でも今までとは知らない景色をみるので、その人なりの心境の変化はどうしても生まれるものだと感じます。

今でもどうしようもなく考えることがあります。
それは例えば生まれもった素質について考えることもありますし、もしかしたら、そういうことを抜きにして、もしなかったとしても、頭の中は同じなので、私だったら、別のことで悩んだりするのだろうか、などとも考えたりしました。考えはじめたら答えの出ないことはたくさんですね。
過去にとらわれるのは、人なので月さんが弱いと感じることではなく、また、過去と今を思って、やはり強くありたいと思うのも人なのではないか思います。
うまく答えになっていなかったら申し訳ありません。
ただ詩を書くですとか、そういったことで気持ちを出すことはとても大切なことだと思います。

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