なんでもカテゴライズしてくることについて例えばアダルトチルドレン

共感することもあるけどそれを知ったところで

良く耳にするアダルトチルドレン。

この言葉を聞くととても苦しくなります。

大学ぐらいの時でしょうか、アダルトチルドレンに関する本を読んだことがありました。

なるほど当てはまる。

良くわかる。

そういうことだったのかと。

その時に感じました。

ただ率直な感想としては癒えてない心の傷がさらにえぐられるような感想でした。

機能不全の家庭で育った子供の心。

そうカテゴライズされてしまうと、なお私の現実は惨めな気持ちになったものでした。

正直な気持ちとしてはそういう現実を知ったところでどうすれば良いのか答えが書いているわけではなかったのでむしろ知らない方がよかったのではないかと。

それは今はどうでしょう。

ずいぶん、自分自身の心と向き合えてきたので免疫のようなものができたように思えます。
 

 

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アダルトチルドレンということに対しての今の率直な気持ち

少し私の心の傷を開くように、久しぶりにこのアダルトチルドレンという言葉について調べてみました。

まあ当てはまっているところがたくさんあること。

ただ、一つ私なりにひっかかったところ、

「大人になっても生き辛さを抱えている」

この部分、確かにそうなんですが、でも誰だって一つや二つそういうのはあるのではないかと。

自己評価が低い、自己主張ができない、対人関係が苦手、誰からも良く思われたい、良い子に育つ、真面目すぎる。

ほんとにそういう部分は私はずっと抱えてきた私のテーマのような気がしました。

ではどうやって克服するのだろうかと。

正直いまでもわかりません。

今は心が落ち着いているのでただ周りとのギャップを感じてもこころが耐える力があるのかもしれません。

でも良く見渡してみると、そうですね、周りの人間がどういう背景で育って、大人になってきたのか正直腹を割って話したことがある人というのはほとんどいないのですが、

あくまでも個人的にですが、

ほぼ99.9%私のまわりにいる人間、主に職場でしか外の人間界でしか触れ合わないのですが、何かしそういうの持っているんじゃないかなって感じるのです。

私の職場の人間が病みすぎているのでしょうか。

私もたいがい普通の考えを持って普段まわりの人たちと接しているとは思いませんが、(もう普通に話して理解されるのをあきらめました)周りのひともたいがい何かしらのコンプレックスを抱えているような気がしてならないのですね。

これはほんとうに最近になってわかってきたことです。

昔は自分に劣等感を感じるがあまり、周りの人間が良くできているように見えた。
 

 

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でも落ち着いて見渡すとみんな同じようなものなのじゃないかって

ただ、親の酒癖ですとか、そういうのほじくりだすともうほんとに嫌になりますし、どれだけ痛い目にあってきたか。

歪んだ生活、子供に隠れて酒を飲む(しかし見え見えの行動で)、朝から泥酔、ふといなくなって戻ってきた時には態度が豹変している。

そりゃあたり前ですが私の心もおかしくなりますよ。

気がくるってしまいますよ。思い出すだけで。

書いたらきりがありませんし、どれだけ今まで親を恨んだことか。

だれも助けてくれない、救いの手はない、誰にも言えない、そういう経験をしてしまいました。

 

幸いにして、それでもこんな母親ですが、時間をかけて回復してくれました。

 

それでですが、そんなこと、ああ苦しかったなとか、人とは違うものを背負ってしまったのかなとかそういつまでも考えていた時もありますが、

 

いざ落ちついてくると、

 

そうですね、周りの人間なんて、多かれ少なかれ、みんな自分に自信がなかったり、はっきり物を言えなかったり、誰かに依存してきたり、良いところだけ搾取していったり、たいしてどうもないことにこだわって人に強制してきたり、本音を隠して接してきたり、

 

そんな人間ばかりのような気がしてきたのです。

 

アダルトチルドレンにあてはまる性格のことをたくさん書いてありますが、

じゃあ、その反対の人ってどんな人なんだろうって、考えました。

その反対の人っているのかなって・・・。

いやいないだろう。

だれかれ負い目や、自信のなさや、コンプレックスを抱えて、それがその人しか理解できないような考え方をもっているような気がしてならない。

この現代の多くが歪みきった人たちがいるなかで、その反対の人たち、アダルトチルドレンとは対極にいる人たちの方が悪い意味で余計目立つよ。

私は最近そう感じてきました。

この人たち人間の弱い部分とか、苦しい部分とか、そういうの経験してきたことないのだろうかって、お前には弱さはないのかって、いや隠して虚勢をはって生きているだけだろうって、

そう感じてならない。

 

そう考えるとみんな同じようなものに私は思ってくるのです。

すくなくとも会社のように、本音をいわないで生きてるような空間の人間関係では。

昔の親の酒癖のようにタチが悪い。

むしろ今まで最悪を見てきたのだからよっぽどそいつらの相手なんかましなものだ。

そう少しは思えるようになってきました。

 

最終的になんでもカテゴリーされると

アダルトチルドレンとかそういう枠、現実を理解するうえで大切なのかもしれない。

でもそうカテゴリーされたところで、じゃあどうするのって!?

風邪には体を温めて、薬をのんで良く寝てというような答えがあるけど、

こういうカテゴリーされたものの答えってなんだか理解できなかった。

じゃあその存在をしったところ、どうなるのだろうって、

むしろ知らなくても良いのじゃないかって、

心の部分の病名とか最近ありすぎて、体の病名とかもありすぎて、

なんでも病気やなんらかの原因に結び付けるの、

それがしんどくなってきた。

深い理解から得られる成果ってほんとにたくさんあるのだとは重々承知しております。

なんらかの研究がより良い今の生活に結びついて、

私がこうしてブログで文字を発信できるのも、機械や通信の発達を考えてくれた人たちのおかげだと思います。

だけど、やっぱり知らなくてもいいこともあるんじゃないかって、

ただしくはその時の自分に必要な情報か、そうでないか、

その時に自分が受け入れらること以外はそんなに真剣に考えなくてもいいんじゃないかって。

じゃないと自分が壊れてしまう。

なんでもこれはこういうことだって、考えるのは良いことだけど、ある人にとってはしんどいこともあるんだって、

だから、物事っていうのはかならず、どっかの側面があって、もう一個の側面があって、

かならずしも、どちらかが正しい、正しくないって割り振れるものではないのだって。

もし悩んでいる人がいるなら、それを伝えたい。

いまの考えを全て否定する必要はまったくないし、ありのままでいれたら、きっと糸口がみつかるってそう思ってほしい。

 

 

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