前回、アニメ映画版「時をかける少女」の時間の有限性について記事を記させていただきました。→時間の有限性、タイムリープについての記事はこちらになります。
今回は前回の記事ではあまり深く記していない、
千昭(ちあき)がみたかった「絵」について考えた部分を記したいと思います。
はたして、あの絵の存在とはなんだったのか、どういう意味があったのか、私なりに考えた部分になります。
そして最終的に真琴(まこと)と千昭(ちあき)は未来で会うことができたのかそんな部分にも触れたいと思います。
(※念のためになりますが、この記事はネタバレが含みますので、できれば鑑賞後に読んでいただけたらと思います。)
千昭がみたかった絵「白梅ニ椿菊図」が登場した意味とは
「時をかける少女」の前半の部分で、主人公の真琴の叔母である、芳山和子こと「魔女おばさん」は自身が務める博物館(東京国立博物館)で修復作業をしている絵「白梅ニ椿菊図」についてこう語っております。
長く見てるとなんだかとってもゆるやかな気分になる不思議な絵
(中略)
何百年も前の歴史的な大戦争と飢饉の時代
世界が終ろうとしてた時、どうしてこんな絵がかけたのかしらね
この映画で登場する千昭がみたかった絵「白梅ニ椿菊図」(実存する絵ではありません)は映画の中では正確にどれくらい前の時代か魔女おばさんから話はありませんでしたが、
「大戦争や飢饉の時代」
この部分が未来から訪れた千昭の時代背景をさぐるヒントになります。
千昭は自身が未来から来たことを真琴へ打ち明ける時に話します。
真琴のいる時代に来た千昭は、
「川が地面を流れているのをはじめて知る」「空がこんなに広いことを知る」
と真琴へ話しております。
真琴は千昭に絵について聞きます。
「あの絵と千昭の住んでた未来となにか関係あるの?教えて」
その答えは千昭から聞けないまま千昭は真琴の前から姿を消しますが、
おそらく大戦争や飢饉の時代、未来の千昭との時代が重なっているのだと感じます。
真琴が生きている時代よりはるか前、戦争や飢饉が起こっていたとされる時代の絵ですが、魔女おばさんは「みているとなんだかとってもゆるやかになる不思議な絵」と話しております。
この表現で感じるところですが、どんな時代、どんな苦しい状況であっても、人は温かく、ゆるやかなこころを持つことができる。またそのような気持ちを絵を通して、この映画で登場する「白梅ニ椿菊図」のような絵で表現することができる。
そう感じました。
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どんな状況の時でも生むことができるこころ
もしかしたら、苦しい時だからこそ、温かみや、ゆるやかなこころに気づいて、その時の気持ちを絵にとどめることができたのかもしれません。
千昭は、自身のいた世界も同じように、大戦争や飢饉に近い状況だったではないかと思われます。
千昭が生きる世界の中でその苦しみを救ってくれるこころ、それを感じることができる「絵」を実際にみて確かめることで、同じような世界の状況でも、昔の人間がどのようにして、ゆるやかな心、温かい心を持つことができたのかを知りたかった。確かめたかったのだろうと考えます。
大戦争や飢饉の時代で誰もが「白梅ニ椿菊図」から感じるようなこころを持っていたとは思いません。
すべての人ではなく、この絵を描いた作者、本人のこころだと感じます。
苦しい時でもその人の中にあるこころ、
例えばですが、それは苦しい世界の中で唯一の存在である家族や自分の子供などを思って、愛情の気持ちを絵に残したからではないかと個人的に「白梅ニ椿菊図」を映画を通してみると感じた気持ちでもありました。
「白梅ニ椿菊図」には女性が描かれております。
それは確かに魔女おばさんが言えば、「そう言われてみれば」ゆるやかな心になり、個人的に温かい雰囲気であり、愛情に満ちているようにも感じます。(人が言うとそのように感じるレベルな私はあまり芸術的なものについて何か言及できるものはないのですが)
子供を授かった女性のようにも感じました。
苦しい時代でも、例えば子供がいた幸福感があったりしたのだろうかと、そんな気持ちが個人的に伝わってきました。
私は子供がいませんし、もし実際いたのであればどれだけの気持ちを得ることができるだろうかと想像したりもします。(補足ですが絵の修復にあたっている「魔女おばさん」こと芳山和子も独身であり子供がおりません。)
例えばそれは今まで生きてきた中で感じたことのない感情と例えればよいでしょうか。愛情ですとか、異性を好きになるようなものとは違う、別の種類の感情です。
この感覚は正直、私にはわかりません。
千昭がどんな風に「白梅ニ椿菊図」の絵を知って、どんな感情を抱いていたのかの細かい部分の描写は映画で語られてはおりませんが、
おそらくこのような感情に近いのではないのだろかと思います。
千昭の生きる世界では感じとることができないものが「白梅ニ椿菊図」から伝わってきたのだろうと。
そしてその絵から、抱いた苦しみの気持ちを埋めることができる何かを感じ、千昭の生きてきた未来の時代の中で生まれた感情、苦しみを乗り越える何かを知りたいと考えたのではないかと想像します。
例えば私が子供がいたらどんな感情になるのだろうかと想像するような気持ちと似たようなものを、千昭は絵を通して、千昭自身の世界では知ることができない感情、愛情、温かさ(ゆるやかな気持ち)を知ってみたいと思ったのではないでしょうか。
苦しい時代やとき、それは、世界が苦しいだけでなく、個人的に苦しい気持ちにもなぞらえます。
苦しい時に、それでも人はどうやって温かい感情をもって乗り越えてきたのだろうかと。
それを知るヒントが欲しかったのではないかと思います。
でもいつしか、絵をみるために来たはずの時代が、真琴がいたり、功助がいたり、大切な仲間ができて、千昭の感じていた苦しみを少しでも忘れることができた。
絵をみるために訪れましたが、真琴のいた時代を気に入り、千昭自身のこころが助かったのだと感じます。
思ってもみない別世界だったのかと。
いつもの日常の固定観念のフィルターとは違う世界をのぞく時に、ふと癒されたり、違う角度で物事を考えたり、こんな感情があるのだと気づくことがあります。
現代ではタイムリープの技術はありませんが、例えば違う場所、今まで住んできたところとは違う土地、もしくは外国など、
いままで知ることができなかった気持ちに触れることがあります。
話が少しそれましたが、
千昭は、自身のいた世界の苦しみ、もしくはその世界から感じる千昭自身の苦しみを救う答えとして、同じような状況の過去の世界で描かれたのにも関わらず、ゆるやかな気持ちになる「こころ」を知りたかったのだと感じました。
時々感じるのですが、
いま苦しいかな、つらいかなって感じる時、そんな苦しみからなにげない普段のありがたみを知ったりもすることがあります。
それは千昭にとっては、川が流れている景色、空が広い景色だったのかもしれません。
千昭の時代には川も空もありませんが、千昭がそう言ってくれることで、私たちの生きている時代でも何気ない景色にありがたみを感じることがあるなと教えてくれます。
何気ないふだん気にもとめない景色にどうしようもない優しさを感じることがあります。
田舎のゆったりとした景色、空気、そこに住む人たちの穏やかな感情、目で見えるもの以外で感じる五感で伝わってくる感情。暖かい空気ですとか温感。
例えば私の場合、ごみごみした都会の景色を見慣れていて、たまに田舎に行った時に感じる安堵感に近いのかもしれません。
いや、千昭はもっと深刻な状況だったのだと思います。
でも時をかける少女の絵から、どんな状況でも、ひとつの共通した気持ちを伝えてくれるのだと感じます。
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真琴と千昭は最終的に未来で会うことができたのか(リメイクする意味)
この記事のまとめになります。
真琴は映画の最後で千昭に「未来へ行く、走っていく」と伝えております。
ではどうやって会いに行くのかを絵の部分を通して最後にお伝えできればと思います。
「時をかける少女」の絵の部分の描写ですが、たとえそれが修復を通して、ほんとうのオリジナルのものがその場に存在しなくても、
当時描かれたこころを、想いをくみとって、修復する人間が、その時の気持ちもあわせて伝えていく。
絵を修復する人間の役割とは、時をかける少女を観て感じたところですと、最初に描いた人の想いを大切に残して未来へ向けてリレーしてくようなイメージになります。
もう描かれた当時のそのままの色彩の感じ、細かいニュアンスなどは消えてしまって完全にオリジナルを再現することは難しいかもしれません。
それでも絵を修復(リメイク)するという行為は、修復する人間が絵から感じたこころも重ねて未来へ伝えていく気持ちだと思います。
「時をかける少女」の物語は、何度もリメイクされています。このアニメ映画版でもお話はリメイクされております。オリジナルとは違いますが伝えたい根底は残しつつも、映画をリメイクされる方のこころも含めて今へつながってきた作品だと思います。
だから、真琴が絵を残すことができるとして、「白梅ニ椿菊図」を千昭へみせることができれば、真琴の気持ちも千昭がいる未来へつながって、たとえ真琴の存在じたいがタイムリープできず、もう千昭と会うことができなくても、絵を通して心が通うこと、つうじることができれば、真琴のこころは千昭に会うこともできますし、千昭のこころも真琴に会うことができます。
たとえば、それはお互いの存在をもう認識できなかったとしても、
絵から伝わるこころでつながることができます。
時をかける少女を鑑賞して感じました。
たとえば、誰か今まで会ったことのない、だけど大切な人、それは、時間、時代をとおして接点はなかったかもしれません。
例えばですが今の私と500年後の誰か。
私の話になってしまいますがこうやって文章を残して、500年後の誰かにもし伝わったとしたら、やはりそれは気持ちが未来へ伝わることなのかなと思ったりもします。
真琴の言葉ではありませんが、気持ちが「未来へ行く、走っていく」ことができるのではないかと感じたりもしました。
真琴が未来へむけて千昭のみたかった絵を残すことができれば、想いは、こころは必ず千昭と会うことができます。
長くなりましたが、
「時をかける少女」の絵から感じた私なりの考察となりました。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。
追記:私がおそらく幼稚園にあがる前ぐらいに父に連れられて国立博物館へ二人で行った記憶があります。もちろん子供でしたので、絵や美術について何もわかりませんでした。ほぼ記憶もありません。それでも父親は何か美術品から感じてくれたらと思い連れてってくれたのでしょうか。私が唯一覚えている記憶は食堂でナポリタンを頼んだのでしたがそれがどうしても食べられませんでした。父親が少し不満そうに、かわりに食べてくれた記憶がいまでも残っております。あの時の私はほんとにわがままな子供だと今では感じるばかりです。子供の時以来、久しぶりに訪れれば、あの時みた記憶は思い出せないかもしれませんが、父親が伝えたかった何かを今知ることができるのではないかと考えたしだいです。
参照リンクになります。他の細田守監督の作品について感想を書いております。
「時をかける少女」タイムリープについてはこちらです。
「サマーウォーズ」についてはこちらです。
「おおかみこどもの雨と雪」についてはこちらです。
「バケモノの子」についてはこちらです。
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