人が子供を持つ意味を考える 小説「八日目の蝉」 感想 ネタバレあり

この記事には、物語の内容、ネタバレが含みますので閲覧にご注意ください。

人はなぜ子供を残すのか この小説から感じた真実の愛とは

角田光代さんの小説、「八日目の蟬(ようかめのせみ)」、蝉が鳴く時期、特にお盆過ぎから9月中頃までの時期に読むのにぴったりの小説です。

蝉しぐれの音を聞きながらの読書がとても物語の情緒を感じることができます。

夏の独特な季節のなかで、逃亡者の「希和子(きわこ)」と娘の「薫(かおる)」、短い時間でしたが、少しでも一緒に幸せに暮らした小豆島(しょうどしま)の風景が浮かんでくる、とても美しい描写がたくさんあった小説でした。

物語の中では、とうぜん、他の季節のシーンもありますが、タイトルに「蟬(せみ)」が入るように小豆島の舞台を背景に夏の季節の印象がとても強い作品です。

小説「八日目の蟬」を読んで考えたところ、感想を記します。(以下、蟬は蝉と記載いたします。)

ドラマ化、映画化もされておりますのでタイトルを知っている方が多い作品ではないでしょうか。

八日目の蝉 (中公文庫)

この小説を読んで考えたところは、一言で言うと、「人間のもった真実の愛情」になります。

文字にして書くと、とてもありきたりで薄っぺらい言い方です。しかし、文字を通して真実の愛情、感情が随所に散りばめられた「八日目の蝉」はほんとうに素晴らしい小説でした。

そして、あわせて読んで考えたところ、なぜ人は子供を持つ(生む)のだろうか、人間にとって子供とは何かを考えた部分も記したいと思います。(子供がいないので、いないもの目線で感じたことになります。)

「八日目の蝉」あらすじ 誘拐犯、野々宮 希和子(ののみや きわこ)と連れ去られた薫(かおる)の切ないまでに愛情でつながれた逃亡劇

「八日目の蝉」のあらすじを簡単におさらいいたします。

登場人物は、野々宮 希和子(ののみや きわこ)生後6ヶ月で希和子に連れ去られた、薫(かおる)、この二人が物語の中心人物になります。

二人の登場人物、希和子(母)薫(娘)の関係性をおさらいします。

希和子と薫は実の母子ではありません。

希和子(きわこ)は大手下着メーカーK社に就職、同僚の秋山丈博と不倫と知りながらも付き合います。

希和子は不倫相手の丈博の子供を妊娠しますが、丈博より説得され堕胎します。

堕胎の結果、希和子は子供を産めない体になってしまいます

幼いこども、薫(かおる)は希和子(きわこ)の不倫相手、丈博と、その妻の恵津子の間に生まれた娘でした。

ある時、希和子はどうしても不倫相手の子供を見たい、ただ見たいという気持ちにかられ、丈博と妻の恵津子が一瞬家を空ける時間帯に、丈博のアパートに入り、寝ている薫の姿をみる。

衝動的に薫を連れ去り、希和子(きわこ)と薫(かおる)の逃亡劇が始まる。

おそらく、希和子が薫を衝動的に連れ去ってしまったのは、堕胎を経験し子供が生めなくなってしまったという部分が一つはあります。

無意識で子供を欲する部分。

あわせて希和子は、不倫相手の妻、恵津子は薫に対しての愛情が薄いことを気づいていた。

希和子は堕胎をするように恵津子からも何度も嫌がらせを受けていたので、本能的にそのような母親から幼い純粋無垢な、薫を一目(ひとめ)見た時に守りたいという気持ちになったのだと思います。

「八日目の蝉」のストーリーはとても良くできております。

逃亡する人間の心理、見つからないように隔離された場所(宗教施設)に至るまでの過程、その施設の背景、小豆島(しょうどしま)という絶妙な地理、とても自然に話が進み、希和子がもう、そうなるしかなかったのだとすんなりと受け止めてしまう展開でした。

ドラマ、映画の「八日目の蝉」もとても素晴らしいのですが、私は小説の中から感じる、刻々と変化する、逃亡する希和子の心情、希和子をずっと本当の母親と信じて育ってきた、少し人見知りでおとなしい娘、薫の成長を感じるのが好きでした。

希和子の逃亡は薫が4歳の時に幕を閉じます。

見つかると察知しフェリーを使って小豆島から別の場所へ逃げようとした時に捕まります。

薫が今まで本当の母親と思っていた希和子との突然の別れ、母、娘としてつながった愛情、切なく、儚いまでも娘の薫を想う希和子と純粋に「母」の希和子を想う薫の姿が好きです。

〇月〇日と日記のように淡々と綴る描写も、逃亡する希和子の心情を覗いている気持ちになりました。読んでいてとても惹き込まれます。

希和子の母親として、薫を想う気持ち、それを感じたところが以下の描写です。

八十八カ所、ひょっとしてまわり終えていればこんなことにはならなかっただろうか。それに写真。お守りになるはずの写真をまだ受け取っていない。薫と二人で撮ったたった一枚の写真。いや、写真ならまたどこかで撮れるはずだ。逃げおおせれば、どこだって。

~中略~

どうか、どうか、どうかお願い、神様、私を逃がして。

蟬の声が追いかけるようについてくる。

(「
八日目の蟬」P218より抜粋いたしました。)

何か罪の意識があったり、少しの、しかし取返しのできない失敗をした時に、ひとは些細なことを理由にしなければ、心を保てない。

それほど希和子の切羽詰まった気持ちをここで感じました。

小豆島の風習、行事、「虫おくり」を島の人たちと一緒に行った時、偶然にもアマチュアカメラマンが撮った、希和子と薫を映した、母、娘の姿の写真が新聞の佳作に選ばれてます。

ざわめく希和子の心、娘の薫と周った八十八カ所めぐりがまだ残っていたこと、大切な薫と撮ったたった一枚の写真を受け取ることができずに、小豆島から逃げないといけない、どれも全て希和子の強烈な後悔と悲しみ、娘を想う気持ちを感じた部分でした。

小説のタイトルにもある、「蟬」の声が追いかけてくるという描写は、切ないのですがとても美しい表現です。

 

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「八日目の蝉」から考えた、どうして人は子供を持つのか

人はなぜ子供を持つのか。

子供がいない私が考えたところ、子供の存在というのは、できた時点で自身がこの世に生まれた証明、「証(あかし)」を残せたこと、と個人的に考えることがあります。

生まれた後で子育ての大変さなどあると思いますが、生物学的な観点でいうと、遺伝子を残せた時点で、自分の生まれた役割を果たせた気がします。

子供を持つ(生む)意味を考える、とこの記事で触れようとしておりますが、もともと人間がもった本能、理屈ではない生命としての必然、さだめ、自然界に存在する動物もおなじく、種の保存のさだめで生きている。

人間ほどの感情を持っていないであろう自然界の動物ですら、自らの「証」である子供がいて、危険にさらされれば必死に守る。

簡単に書くと、本能です。

「八日目の蝉」を読んで感じたところで、話が戻りますが、

どうして人間、ひいては自然界の動物もふくめて子供を生み、残すのか。

すこし深く考えた部分です。

「八日目の蝉」に限らず、著者、角田光代さんの書いた小説には「生」はきれいで美しいものであるというメッセージが隠されていると読んでいて感じます。

物語では、希和子は不倫した相手の娘を誘拐し自分の子供として育てる。

それは、とても倫理的には許されるものではないのですが、そういうことではなくもっと、ほんとうに伝えたい部分です。

「八日目の蝉」にあるのは、人間のもった種の保存、性欲、そのような先天的な欲求をこえて、ひとりの子供への大切な想いを描いた、暖かくて、そして切ない愛情の物語でした。

単純に生まれながらにある、性欲で子供を残したい。

そういう部分は、もちろん人間も動物なので理由のひとつとして誰もがあるとは思います。

なぜ人は人間は子供を生み、残そうとするのか、

それは、希和子が薫を連れて逃亡し行き着いた、小豆島の景色に触れた時のように、

人が人生の中でみてきたもの、映った景色、感じたものが綺麗だったからだと思うのです。

希和子と薫が目にした小豆島の夏の景色、

小説を読むだけで伝わってきます。

穏やかでのんびりしていて、海が眩しくて綺麗で・・・。

目にした景色、抱いた心情を残したい、ずっとこの先も未来に渡って残したい。

映った景色がとても美しかったから、人は感じた気持ちを残したい。

もしかしたら動物だってあるかもしれません。

動物がどう感じているかなんてほんとうのところは、人間はわかりませんから。

ここまで生きてきてやっと目に触れた美しい景色、肌をなでるやさしい風、人は理屈でなく、心で感じた生に対しての綺麗で前向きな感情を持った時に、

ずっとその気持ちを残したい、伝えたい、

「つなげていきたい」

子供を持つ、生むとは、そういった美しい背景があるのではないかと、少なくとも「八日目の蝉」を通して感じた希和子の心情を思うと考えてしまうのです。

きっと、子供を生んだ時の気持ちって、美しい肯定的な気持ちを大切な人に伝えたいからだと、「八日目の蝉」を読むと、子供がいないながらにそう感じてしまったのです。

それは、たとえ実子でなくても。

希和子が不倫相手のアパートに行き、薫をみたときに衝動的につれさった。

それは、恵津子という情緒不安な不倫相手の実母から薫を守りたいという母性もあったと思いますが、薫を通して、もっとこの先、美しい世界を教えたいというピュアな気持ちだったのではないでしょうか。

 

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真実の愛情とはなにか

もうひとつ、角田光代さんの小説で感じるのは、最初にすこし触れましたが「真実の愛情」です。

この物語の中には宗教的な描写もふくまれておりますが、全財産をなげうってでも、ほんとうの子供ではない、薫を守りたいという希和子の気持ち。

そして逃亡の末、辿り着いた小豆島で希和子が見た景色を、ほんとうに大切な人(薫)に残したいという気持ち。

そう考えると例え、血縁など関係なく、誰か大切な人に気持ちを残すことができれば、それもひとつの種の保存なのではないかと、「八日目の蝉」を読んで考えたところです。

最終的に、実の子である、ないに関わらず。

人が誰かを愛する気持ちの根底にはとても美しい背景があるのだと感じる作品です。

たとえば、うちの親はなんで子(私)を生んだのか、

それは、生んだ時はとても美しい、それこそ、希和子が薫に見せたい景色があったように、私にも見せたい景色があったのではないかと考えるのです。

うちの家は、残念ながら母はアルコール依存に走り、それで、父は幼少の頃の離婚で離れてしまいました。

「きっと世の中が全て悪いんだ」という成長期の子供のような気持ちを、いまさら大人になって抱きませんが、

そうなってしまった背景には、経済での競争社会、学歴での競争社会、世の中から押し付けられた無言のプレッシャーのようなものが母あるいは父にも知らずに向けられてしまっていたのかと思うところはあります。

それこそ、時代背景にある価値観などにいつのまにか親も、もしくは私も飲み込まれ、子供を生んだときの気持ち、私も生まれた時の気持ちをしだいに失ってしまったのではないかと感じました。

おそらく、いまさらになって思う「たら、れば」なのですが、うちの家庭の場合は、

もっと牧歌的でのんびりとした、ひっそりとした暮らしならもしかしたらうまくいったのではないかと思いました。

希和子と薫が過ごした、小豆島の生活のように。

あまりにも情報量が多く、大切に抱いていた気持ちがいつの間にか淘汰され、いつかみた景色さえ忘れてしまうそんな日常を感じてしまうことがあります。

美しく感じた心も、いつだか世の中の色々な価値観と重ねて、いつの間にか当てはめて、本人の中での大切な感覚がなくなっておかしくなっていった。

うちの母親の場合はそうだったのではないか。

子供に対して勉強しなさいなど言うことも、学歴なども、きっと、では、なんでそんなこと言うのか、言う側もいつの間にかよくわからなくなってしまっていた気もするのです。

そうして、よくわからなくなったまま、彷徨ってしまい、いつか見た子供を生んだ時の大切な景色を忘れてしまう。

私だって、当てはまることがあります。

「八日目の蝉」に登場する誘拐犯、希和子は、決して綺麗なこころだけでなく、どうしてもあらがえない本能というものがあるんだと感じた場面がありました。

希和子は大切な薫を失い刑務所で時を重ねます。

懲役を終え、世の中に戻ってきた時、もう全てを失ったと希和子は感じておりました。

いくあてもなく辿り着いた薄暗い、おそらく小さなさびれた食堂に入った時の描写です。

ここが印象に残りました。

それでもよかったのだ、薫がいさえすれば。その薫ももういない。永遠にいない。外の世界に出されたからといって、何を目指してどこに向かえばいいのか、希和子はまったくわからなかった。

それなのに、そんな状況にいるというのに、みすぼらしい食堂で出されたラーメン一杯をおいしいと、まだ自分は思うのだ。麵の切れ端までのみこもうとしているのだ。そのことに希和子は打ちのめされた。

まだ生きていけるかもしれない。いや、まだ生きるしかないんだろう。

(「八日目の蝉」P363より引用いたしました。)

この文章がとても印象に残っております。

結局、全てをなげて、罪を背負って、逃げ通してまで守りたかった大切な薫を失った希和子。

読んでいる私までもが、感情移入し、何もかも失ってしまったような気になったのですが、希和子のラーメン一杯を食べた時の感情の描写、

人間というのは、全てを失ったようでも、全てが終わりになったと感じてしまっても、生存欲、極端に言えば、動物としての本能に支配されているのだと、

食欲、性欲、これは人間が、いや動物が背負った業のようなものだと思います。

たとえ希和子のように自分が生んだ子供ではない薫を愛し、理性を持って、薫を守ろうと生きた、希和子の薫に対しての生き方は、人が持った欲求にさらかうほどに強く、無償の愛情を与えていたのです。

そんな希和子でも「どうやってもあらがえないもの」に支配されているのだとそう感じる描写でした。

人間は、感情で考える部分、理性と本能の間に揺れ動いて、バランスを保ってなんとか生きているんだと考えてしまいました。

 

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薫を誘拐し四歳まで育てた希和子の行動は、表面的にみたらとても許されることではないのですが、薫の本当の母親、不倫相手の妻、秋山恵津子(あきやまえつこ)は、希和子からしたらおそらく薫という子供を幸せに育てることができないだろうと直感で理解した。

結局、大人になった薫は、希和子と離され、実の家族と暮らしますが、実親(恵津子)との家族関係は良くありませんでした。

薫にとっては希和子とずっと一緒に過ごせた方がきっと、もっと綺麗な、それこそ希和子がいつか薫に見せたかったものを見ることができたのではないかと考えてしまします。

「八日目の蝉」は、実母、実子の関係を超えた、こころでつながった感情があるんだと知ることができる作品です。

長い間土の中にいて、七日しか生きれない蟬は生の無情さを感じます。

きっと一日でも長く生き延びた蟬がみることができた光景のように、無情でも人生は美しくて、

人間の持った欲を色々とあげますと、愛欲、色欲、性欲、物欲、食欲、そのような人間にそなわった本能にあらがってでも、人に感情を向けることができるこころ、

それが「真実の愛情」なのではないかと、この作品を読んで考えたところになります。

ほか、睡眠欲などもありますが、ここに上げた欲は、なんとかできる、理性でコントロールできる部分かもしれないと思うのです。(食欲は完全には厳しいですが、たとえば贅沢なものを食べないとかです。)

きっと、子供を生むことは、希和子のように、何に変えても、その人が生きてきた中でみた綺麗な景色、気持ち、こころが、きっと誰の根底にもあるのだろうと、

そう信じることができる作品でした。

「八日目の蟬」のなかで、小豆島での生活は短かったですが、質素でも、希和子と薫が二人でいきいきと毎日過ごした場面が好きでした。

ほんとうに豊(ゆたか)な暮らしってなんだろう、そう考える生活です。

小説を読んで、ところどころ、小豆島から見る海の景色、島々、醤油のにおい、夏の光、蟬の鳴き声、オリーブの木、読んでいて景色のようにみえてきました。

希和子が薫と一緒に写真をとる行動、きっと希和子はどこかで、薫との生活が長く続かないと感じていたのでしょう。

その写真が希和子の手に渡らなかったところに胸が苦しくなります。

ずっと、希和子と薫の小豆島での生活が続けばと切に願ってしまいました。

どうして真実の愛情が否定されて、希和子と薫は離されてしまうのか、ほんとうの真実ってなんだろうかと、この物語には途中、この誘拐劇について、裁判の様子もでてきますが、考える部分でした。

実母の恵津子は、戻ってきた薫とうまくいかず苦しみますが、彼女も不倫をされた被害者であり、薫を生むときにはきっとみせたい景色があったと思います。

何が善で何が悪となるのだろうか、いったい物事の物差しってなんなのだろうか、裁判の話をするとまた話がずれてしまいそうなのでここでは、この話はあまり触れません。

「八日目の蝉」この小説を読み返すと、

いつか、希和子と薫がみた景色、夏の蟬の鳴き声が聞こえる季節の小豆島に訪れたい、そのような気持ちになります。

「八日目の蝉」から感じた、人の愛情、真実の愛について考え、書いてみました。

とても長くなってしまいました。

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

追記:映画版もとてもおすすめです。ただ、希和子と薫の別れのシーンがあまりにも切ないので、私は希和子と薫の二人の小豆島での短い生活を読書で味わう方が好きな作品です。

八日目の蝉

 

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