アニメ映画版「時をかける少女」について記させていただければと思い、記事にさせていただきました。
この記事は「時をかける少女」を観ることで感じた、時間の有限性について記したいと思います。
あなたは過去へタイムリープできるとすれば、何回でもしたいと思いますか!?
※この記事はネタバレを含みます。(映画を未視聴の方は記事の閲覧にご注意いただければと思います。)
映画の鑑賞後にこんな感想もあるのだなと、そのような感じで記事を読んでいただけたらと思い記させていただきました。
もくじ
もしあなたは何回でも過去へタイムリープできたらどう思いますか!?
「時をかける少女」この映画を観ることで、私は時間の有限性について考えました。
この物語、主人公のヒロイン、紺野 真琴(まこと)は自身がタイプリープできるようになることを知ります。
最初に真琴は叔母である、「魔女おばさん」こと芳山和子へタイムリープについてこう語ります。
「何があっても大丈夫 また戻ればいいんだもん 何回だってリセットできるもんね。」
この言葉、もしほんとうにこの物語で何回でも時間を戻してリセットできるのであれば、はたして結末はどうだったでしょうか。
真琴はこの物語の当初はタイムリープできる回数が限られていることに気づいておりません。
映画の中で、タイムリープができる回数を示すのは、真琴がお風呂に入っている時に気づいた左腕の上腕裏側にみえる「90」と思われる文字。
この部分は、私はタイムリープできる残りの回数なのではないかとなんとなく気づいたりしたのですが、
「90」という数字を暗に意識することで、真琴のタイムリープは無制限ではありませんが、けっこう何回もできるのものなのだと感じてしまいました。
実際に最初に観た時は90回なのかなと思いました。
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タイムリープできる回数から感じたこと
真琴自信も左側の数字が残りのタイムリープ回数とは当初気づいておりませんでしたが、それでも心のどこかで、タイムリープの回数だとなんとなく感じていたのではないでしょうか。(これはあくまでも私の感想になります。)
実際は「90」これが「06」→あと6回残っているということだったのですね。
「90」
↓
「06」
私はこういう数字のロジックが苦手なので一回目を観た時にうまくイメージできなかったのですが、実際に紙に書いてみるとわかりやすかったです。
紙に「90」と書いた数字を逆さにしていただけると「06」となることがわかります。
おお、なるほどとこの時に思いました。(頭悪くてすいません・・・。)
そして、そこから感じた時間の有限性。
当然ですが、真琴はお風呂場で左腕の「90」という文字をみた時にタイムリープできる回数の意味とは気づいておりません。
もともと一回チャージすることで合計何回タイムリープできるのでしょうか?これは個人的な謎です。
映画の中で、真琴のタイムリープの使い方の描写は、最初、回数など気にするわけもなく、好き放題タイムリープを使っておりました。
例えばですが、カラオケの回数、野球のボールの行方、好きな夕飯の献立を食べるため、二度寝三度寝のため。
正直、かなりどうでも良いことに使っておりました。
しかし、この描写がたった一回だけでも過去に戻ることができることの大切さを、後に切実に教えてくれるのでした。
真琴は物語の後半の方でタイムリープの回数に気づきます。
段々なんとなく気づいてきたと思われますが、それが「50」回→「05」回に減っているのですが、5を逆さにしても、「50」とも「05」とも読み取れる描写の仕方は凄いなと、何度も観ることで気がつき感心いたしました。(「20」と「02」も区別が難しいです。)
話を戻しますが、いざ、ほんとにタイムリープを使いたい時、
功介と彼女を後ろに乗せた自転車のブレーキが利かずに坂道を下って、踏切へ突っ込んでしまう場面、時を戻したいと真琴が思った時、
その時にすでに残りのタイムリープはなくなっておりました。
真琴が残り1回のタイムリープを使ったのは、未来から来ていた間宮 千昭(ちあき)にタイムリープを使っているのではないか?と電話でたずねられた時が最後のタイムリープでした。
真琴はタイムリープで千昭との会話をなかったことにします。
しかし、その直後に、功介と彼女をのせたブレーキの利かなくなっている自転車が坂道を下り、電車の通過する踏切に突っ込みます。
この時にもう戻らないはずの時間が戻るのですが、それは未来から来た千昭が時間を戻しました。
千昭のタイムリープできる残りの回数も、そこで時間を戻した時が最後の1回でした。
音のない時間が止まった横断歩道で、真琴と千昭はタイムリープについて話ます。
千昭は未来からきた人間であり、そしてタイムリープの存在を人に話たのであれば、姿を消さなくてはならない。
千昭もおそらく何度もタイムリープを使ったのでしょうか。
それでも、真琴や功介が存在した時間、時代が気に入って帰れなくなったと千昭自身が真琴に話しております。
千昭自身が未来へ帰ることができるために残しておいた最後のタイムリープを使いきり真琴の前から姿を消します。
残されたタイムリープの有限性から気づくこと
真琴は大切な友人であった、そしてどこかで恋心を抱いていたであろう千昭ともう会えなくなることを知ります。
あんなに使っていたタイムリープも、もう使えない…。
その時に真琴は千昭に対しての気持ちにも気づくのです。
いつか、千昭が真琴に対して付き合わないかと話した時に、真琴はそれを一度拒否します。
この気持ちの解釈は難しいところです。
真琴は千昭に対してその時点で恋愛感情があったのでしょうか。
おそらく、千昭の自転車の後ろに乗った時に必死に時間を元に戻して、千昭の真琴に対しての付き合わないかとの告白の気持ちをなかったことにしたのは、
真琴と千昭、そして功介も含めた、友達として居心地の良い関係、空気、雰囲気が変わることを恐れていたからだと感じます。
もしくは千昭に対しての恋心を見て見ぬふりをして、自身の心に向き合うことが少し怖かったのかとも感じました。二人の、そして功介も含めた、三人の空気が微妙に変化してしまうこと、「今」が変わることが少し怖かったのかと映る描写でした。
千昭がいなくなることがわかったこと、そして、タイムリープが使えなくなること、
はじめてそれを知ることで真琴は「本気」の気持ちを出すのです。
千昭がタイムリープで時間を戻してくれたおかげで、真琴のタイムリープの回数は1回戻っていることに真琴は気づきます。
てんとう虫が腕にとまって数字を知らせるのですが、まさに虫の知らせです。
残された1回をどうやって使うのか。
たった、1回しか使えないからこそ真琴は自分の気持ちに嘘をついてタイムリープを繰り返すのではなく、
真琴の伝えたいこと、千昭に伝えたいことのためにタイムリープを使います。
たとえ真琴は千昭とさよならをすることになっても、そして千昭を未来へ戻すために、千昭のタイムリープの回数を1回戻すためにも。
もう真琴は過去へは戻れなくなります。それは過去に戻って千昭に会うことも、もうできなくなります。
タイムリープの回数が無制限にあったらこの物語は成立しません。
きっと千昭と真琴はほんとうのことお互いに話さないままでいたでしょう。
時間をさかのぼれるとしたらあなたは何に使いますか!?
時間をさかのぼる、過去や未来へ自由に移動できる。
人間はタイムリープというものを想像できるのになぜ、実現できないのだろか。
もし未来の人間がタイムリープを実現することができていたら、すでに未来の人間がこの時代に訪れています。
これは、私はタイムトラベル系の物語をみるたびに想像してしまうことです。
他の方も思ったりするでしょうか。
ですが、時間というは有限性があるからこそ意味があるのだと「時をかける少女」を鑑賞したことで気づいたことでした。
真琴も一度、全て使い切ったと思っていたタイムリープが、千昭が最後のタイムリープを真琴の為に使ってくれたことで、時間が戻り真琴にタイムリープのチャンスが再び、1回だけ戻ります。
人なんて一回しかない人生だからこそ、何かできる、もしくは、何かやろうとしたりするのではないでしょうか。
もしタイムリープという存在があったとしても、(もしかしたらすでに実現しているのかもなんて私はひそかにこの物語で思ったりしたのでしたが)、それはやはり「バラしたら」終わりなんだと思います。
一度しかない時間だから大切なのです。
「有限だからこそ時間の大切さを知るのです」
時間のありがたみがわかるのだと感じます。
それは、タイムリープという仕組みができたとしても(もしかしたら、もうできていたとしても)変わらない不変の価値なのではないかと思ったりしました。
何度でも人生やり直しができたり、何度でも戻ることができたら、
いつまで経っても自身が抱く本当の心や気持ちに人は向き合わないままだと感じたりしました。
千昭が最後に使ったタイムリープは真琴の罪悪感を救うためでした。
未来へ帰れなくなった千昭も真琴へ全ての気持ちを話します。
どうして未来からきたのか、そしてなぜ真琴達と一緒に過ごしていたのか。
千昭とのさよならを知ることで真琴も本当の気持ち、それは千昭が好きだったなど、そういう複雑な恋心もあるかもしれませんが、
千昭が真琴へ対して行った行動、真琴の罪悪感を救うために最後のタイムリープを使ったことで千昭の愛情を感じとったことだったと思います。
千昭が真琴を好きだったことは物語の後半で功介を通しても気づきますが、真琴も千昭に対しての気持ちを気づくこと、そして1回しかない使えないタイムリープ、それはもう戻すことのできない時間の有限性に気づき、千昭へ対しての気持ちをぶつけることではじめて意味を成すのでした。
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この物語で感じた二差路の描写について
物語の最初の方で、千昭に「付き合わないか?」と、千昭の自転車の後ろに乗って告白される場面を何度も真琴はタイムリープして戻る場面は二差路でした。
この二差路はタイムリープを操れることで真琴が選択できる道、受け入れることも、なかったことにすることもできることを示しているような、そのような描写に映りました。
この時の描写は最終的にどういう形でも千昭は真琴へ告白するので、千昭の自転車から降りて左側の道を真琴は選択して歩いて行き、千昭の告白をなかったことにした真琴でしたが、
もう戻れないことを知った真琴にどちらに選択をするかの道はありませんでした。
「Time waits for no one」時間は誰も待たない。
人は1回しかない時間の価値をはじめて知ってこそ、ほんとうに時間を大切にして、そして気持ちを込めて誰かに想いを告げるために生きられるのではないでしょうか。
そこは戻ることのできない道でして右か左、どちらかを選択し進んだのなら、もうその二差路に戻ることはできません。
時は戻せない。
この物語で感じることはやはり時間の有限性でした。
誰しもどちらかにしようかと悩むことがあるかと思います。
私だっていつでも、今でも思い悩むことがあります。
あの時あっちを選択していれば、あの時にあっちに行動していれば、
そんなこと今でもいつでも考えてしまいます。
でも、例え、その過去の選択が「今」は間違ったと思ったりしたとしても、それでも今を通りこしてこの先の「未来」へもつながっていることで、
「今」を変えて行くことでこの先の「未来」へもつなげることができる。
もっと言うと、過去は変えることはできませんが、過去の経験を踏まえた「今」を変えることで、未来を変えることはできるのではないかとこの物語から感じました。
真琴は最後に千昭へ「未来へ行く、走っていく」と伝えますが、
真琴の決めたやることって何だと思いますか!?
人によってこの物語の解釈は様々ですが、色々な考察を読む限り、私は未来の千昭へ向けて、千昭が見たいと思いこの時代へ来た、みたかった絵を千昭の未来へ残すことだと私も思います。
それ以外の選択肢で千昭への思いを真琴はどうやって未来へ伝えることができるのだろうか考えました。どうやって未来の千昭へ会いにいくのだろうか。
真琴の叔母である、魔女おばさんが博物館で学芸員として、絵の修復の仕事をしている描写もおそらく、真琴の将来を暗にほのめかしているように感じました。
過去、戦争や飢饉の時に描かれたそんな時代に描かれた絵ですが、現代で眺めても不思議と温かい気持ちを感じると真琴の叔母である魔女おばさんは言っております。
例え、真琴の存在を未来の千昭にダイレクトに届けることができなくても、千昭が見たかった絵を未来へ残すことで、絵を通して真琴の千昭へ対しての気持ちを伝えることができるのだろうと。
私はこの解釈が正しいと感じます。→絵の部分についての考察はこちらになります。
「時をかける少女」のまとめになります
「時をかける少女」を通じて生きる時間は一回しかないこと、そして、人間は「時」の大切さをいつのまにか知らずに、忘れて生きてしまう。
一回しかないのだから、「大切な思いを伝えよう」「今を生きよう」そんなことを頭のどこかで思っていてもいざ自身の身に切実にふりかからないと人間って動けないものなのではと感じます。
結局、そのままいつの間にかなにげなく生活して、時だけが経っていく。
私は自身の過去を振り返るとそう思ってしまうのです。
「時をかける少女」で真琴と千昭を通して時間という物を考え感じたことで、過去の時間を浪費してしまった私がいたなと感じるところがありました。そこにはあの時に戻れたらという後悔の気持ちも正直ありました。
それでも「今」を生きて、過去の私も含めて認めて、そして未来へつなげていく。
そうやって限られた一度の時間を生きていけたらとこの物語を観て考えるのでした。
長い文章になりましたが、ここまで読んでいただきましてありがとうございました。
追記:「時をかける少女」アニメ映画の記事を記すにあたり、1983年につくられた「時をかける少女」も鑑賞させていただきました。おそらく一度観たことがあるのですが内容は覚えておらず、私はどちらか言うと松任谷由実さん(ユーミン)の時をかける少女の歌の印象がとても強く残っておりました。
それで、歌から感じる「時をかける少女」ですが、
今回記事を記した、アニメ映画版での「時をかける少女」で流れる挿入歌「変わらないもの」ですが、これはアイマスが好きな私は「MASTER ARTIST 3 03」(2015年)で真がカバーしているのを聴いていたですが、映画を観ていて、この挿入歌が流れた時は、アニメを通してつながったと勝手に感じてしまいました。映画の主人公の真琴と、「変わらないもの」をカバーをした真。「時をかける少女」を観た時に感じたボーイッシュな主人公「真琴」は、名前が同じ「真」とイメージが重なった気持ちがあったのですが(ややこしい書き方ですいません)この曲が真でカバーされたのは、そんな登場人物の性格や名前もあったりするのかなと思ったりもしたのでした。
参照リンクになります。他の細田守監督の作品について感想を書いております。
「時をかける少女」絵の謎についてはこちらです。
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