小説「舞台」の主人公に対して
西加奈子さんの小説「舞台」を読書しました。
この方は女性に人気の作家でしょうか。以前、声優の方による銀河鉄道の夜の朗読劇に行ったパンフレットに、キャストの方のインタビューで好きな作家に西加奈子さんの名前が多かったのです。
私も以前に他の作品を読んだことがありました。
今回読んだ「舞台」ですが、私がこの主人公に抱いた気持ち、
自意識が過剰すぎるのではないかと。
これでは何かと生きづらいのではないかと。
こんなにまわりの目を気にしていたらおかしくなってしまうよと、
でも、この主人公に限らずに、神経の細やかな人が感じる描写はとても印象に残りました。
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周りの目を気にし過ぎるから「演じる」
「舞台」というタイトルは、周りからの視線、どう自分が映るかを気にし過ぎるあまりに、自己を演じるということから「舞台」というタイトルになったのだと思います。
私は正直な気持ち、この作品の主人公、周りも自分も、ちょっと気にし過ぎではないかと感じてしまったのです。
小説のところどころで自身の生まれた環境からくるコンプレックスに苦しめられる気持ちが描写されております。
恵まれた環境に育ったはずだったのに、でも人はそれでも感じる苦しみがあるのですね。
ひたすら自分の「素」を出さずに、演じていることで生きている苦しみが伝わってきます。
初めての海外旅行でニューヨークを訪れ、その旅行の最初の方に、セントラルパークで寝転って読書をしようとしたところで、泥棒にバックを盗まれてしまいます。
ここで、この主人公は周囲の視線を気にするあまり、何もできなくなります。
しまいにはその場所で「眠る」演技をしてしまいます。
そんなことは何でもなかったのだと周囲に伝えるように。
こんなことあり得るかな、私は、逆に不自然だと感じたのですが、この主人公は、なんでもなかったことを「演じる」ことの方が自然だと感じたのでしょうか。
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主人公が経験した限界突破のようなもの
この小説は、ほぼ無一文になってニューヨークを彷徨う男性が、その状況の中で自己と向き合い最終的には自身に抱いていた、演じるという生き方に対して、限界突破できたことを知る作品だと個人的に感じました。
この自身と向き合うことを知るまで、今までの生き方とは別の視点を感じることができない主人公は私は好きではありませんでした。
自分の気持ちが傷つくことに対しては心の中で罵詈雑言のような気持ちを抱き、都合の良いことだけに感謝する。
そういう考え方に少しイライラ、正直しました。
ただ、私も若い時に感じた周りとの違和感を考えるとそのような気持ちも理解できるのも確かでした。
おそらく私の中にもこの主人公と同じような一面があるからなのだと思います。
私自身の嫌な部分だからこの主人公に共感できない気持ちと言えばよいでしょうか。
相手のことを理解してないのに勝手に抱く被害妄想に近い気持ち、そういう経験を私もたくさんしました。
そのような状況の時は確かに何もできなくなります。心も体も動けなくなってしまうのも確かです。
最初に理解できなかったと書きましたが、物を盗まれた後にひたすら眠る演技もあまりにも若い私であったならば同じようなことをしてしまったかもしれません。
この例えが正しいかはわかりませんが、学生の時、休みの時間や自由時間などに誰とも話すのが嫌で、話すのが苦手で、面倒くさくて、机に突っ伏して「寝たフリ」をしていたことを思い出しましたがそんな感覚なのかなと思いました。
中学、高校と強制的な空間で人とコミュニケーションをとることに苦しさを感じていた私はそれから逃れることができた自由を考えるとそれ以降(大学以降)の人と関わる部分はだいぶ楽になりました。
でも環境的に楽になっただけで「演技」という部分は変わらないのかもしれないとふと考えました。
この物語は私の中では最後まで少しイライラしてしまう内容でしたが、徐々に主人公の心境の変化、29歳になるまで抱いてきたであろう生きづらさ、それを少しずつ変化させていったところに読み応えを感じました。
9セントのピザを美味しく頬張るところは好きでした。
舞台 (講談社文庫)
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