角田光代 「トリップ」感想 ネタバレ有り 都下の空気が伝わった小説

角田光代さん著「トリップ」感想になります

東京郊外に暮らす人々を描く、10話構成の短編小説です。

それぞれの登場人物から視点があるのですが、各話の登場人物が物語のどこかでつながっている書き方が面白い作品でした。

※この記事はネタバレを含みます。(ミステリー作品ではありません)

今回は個人的に、印象に残った章、「秋のひまわり」を中心にネタバレ有りで感想いたします。

あらすじを簡単に書きますと、主人公の12才の少年「典生」のまわりに登場する大人はどこか完全でなくて、むしろ典生を傷つけてしまう存在であったのですが、典生は母、そしてアルバムを通して本当の父、そして、お金を持ち逃げしていく店員へ向けた、気持ちの変化について考える作品でした。

大人がダメでも、子供がしっかりと真実を見つめ、そして愛について悟った。

簡単に書きますと、そのような内容の作品でした。

この小説を読んだ感想、読み終えた後に、いや読み進め感じたところが、東京郊外のとくになにも特徴もない舞台の描き方が印象的に残りました。

とくに際立った盛り上がりもない、むしろのっぺりとしていて、平たんで、起伏がすくない、そんな雰囲気がとても漂った作品です。(あくまで個人的な意見です。) 

そんな東京郊外の舞台背景が、登場人物の心象とうまく重なっていたなと感じました。

少し読みながら不安になる、寂しくなる、どこか弱々しい商店街、そんな本のイメージでした。

まさに私のいだく東京郊外の雰囲気でして、実際にドーナツ型の円の部分に暮らしている私は、どこか寂し気な影を感じるこの本の描写にしみじみいたしました。

そして、ある意味この物語は、先ほどもお伝えしたように平たんで、展開に盛り上がりが少ないところがありますので読み進める部分も少し集中力が必要だった気がします。

久しぶりに読書を完走いたしました。

ほんとにほんとに、しばらく読書しても頭に入ってこない感じがあり、ずっと、ずっと先に進みませんでした。

文字を読んでもいつの間にか別のことを考えていたりと、そんな状態でした。

しかし久しぶりに読走した後の感覚は気持ちよい作品でした。

少し弱い空気も最後は、光が差し込むような短編小説でした。

久しぶりに感想文を記したいと思います。

ありふれた日常に感じる弱さと、でも優しさと

今回の短編小説「トリップ」は、少し読んでいて気持ちが不安になる作品でした。

どこにでもある日常というのは、こんなものなのかもしれません。

とくに特徴のない東京郊外の商店街を描いております。

この短編小説は10話ありますので、全てに感想を書くのは難しいのですが、短編中盤やや終わりの「秋のひまわり」に登場する12才の少年、「典生」に少し共感した部分がありました。

花屋の実家で母と二人で暮らす12才の少年。

父は典生が小学生の時に、女をつくり、出て行っております。(ダメ父だったようです。)

普通の日常というのがどういう感覚かをここでは細かに書きませんが、「秋のひまわり」から感じたところは、よくイメージする「日常」というのは、けっこう簡単に崩れてしまう、

平たんな描写ですが、そんな怖さも少し感じた小説でした。

あわせて、なにげない日々の時間で、あまり考えないけど、なんともない日常にありがたみや、幸せを考えてしまう本でもありました。

「秋のひまわり」の少年、典生の心境というのは、信じていた少しの期待もけっこう簡単に残酷にあっさりと崩れてしまう部分が心にささりました。

母と仲が良かった花屋の男性店員(マナベさん)が代わりの父になることを夢みていたのに、そのマナベさんもお店のお金を持っていなくなってしまったりですね・・・。

さらに、少年は学校でいじめられていて、そのことを母にかくしたりと、まあ少し重たい描写があるのです。

なにげない日常どころではないですね。ただ、そんな部分も淡々と小説では記されているので、あたかも各話に出てくる登場人物の日常というが、これがあたり前かと錯覚してしまうような気になりました。

(少しそれますが、そういう部分では本のタイトルが意味するところもあったのでしょうか。)

平たんでうっすらと怖い描写でも、角田光代さんの本というのは、最後に、光が差し込むように感じるところが個人的に好きです。

アルバムから出てきた、生まれたときに考えられた名前

12才の少年、典生の描写は、実の父は蒸発し、母との生活、いじめがあったりとけっこうつらい現実なのですが、

母と仲良が良く、少年じたいも大好きだった花屋の店員マナベさんが父になって欲しいという、微かな淡い期待も、マナベさんが店のお金を持ち出していなくなる・・・という展開でした。

「秋のひまわり」というタイトルもどことなく、盛りの過ぎた眩しい夏がまだ残されている感覚がよけいに寂しげです。

ただこの物語の最後に、店のお金も持ち出されて、絶望した母が広げていたアルバムのところで、救われる描写があるのです。

「古いアルバム」を覗くという行為。

 

写真アルバムを作るということが、デジタル化の現代の家庭にあるのでしょうか。

みんな今はデジタル化して、写真も簡単に残せるので、残っている写真は案外大切な気持ちがない。

そんなことを考えしまいました。(あくまで個人的な気持ちです。)

もし大切な一枚があったとしても、スマートフォンだと、日々のどうでもよいようなスクリーンショットなどに埋もれてしまって、もはや、大切な一枚が本当に大切なものかすらわからなくなったりする時があったりします。

いつでも見られることが結局、見ることすらしなくなり、保存もせず、おさめた携帯じたいがいつしか壊れてしまって、再び見ることができない場合も実際にありました。

そんな今と比べると、昔みたいに、カメラでおさめて印画紙に写して残す。

1枚を撮るのだってお金がかかりますし、複写にだってお金がかかったと思います。

今のようにデータ容量さえ残っていれば、いくらでもタダで増やすことが出来たのとは「ワケ」が違います。

そういった意味では、昔の、印画紙で残すアルバムというのは今の時代と比較すると、とてもすごいもの、はたまた、アルバム一冊がひとつの、その人達、その家族の作品になっているのではないかとすら感じました。(今の家族にうといので、ごく普通の家庭では今もアルバムにしているのかもしれません。)

というのも、こないだ別の記事でも書きましたが、押し入れを片付けていたら古いアルバムが出てきて、それでこの物語の少年と同じく、私を含めた家族の写真をみたのですね。

もうとても良い雰囲気の味がある写真でした。

印画紙の色あせが、より深みを与える感じですね。

今のデジタルカメラは確かに綺麗な画素で、細部も移りますが、開いたアルバムから漂う、なんだか少しモノトーンがかった色ノリがとても雰囲気を出していたのですね。

今時、フィルムカメラでおさめた作品の方が、良い味が出るのではないかと思います。(ポラロイドとかも良さそうです。)

まあ、こんな感覚も、人というのは、どうしても「今ないもの」を欲しがったりする感覚なのかなとも思います。

フィルムでおさめていた時代からすれば、デジタル化の恩恵というのも計り知れないものがありましたから。

ただ、なんというか時間をかけた手間ひまというか、そんな良さもあったりするのだなと考えました。

 

物語に話を戻しますが、お店のお金を持ち逃げされ絶望に陥る母と12才の少年、典生。

それでも昔のアルバムを眺めることで心が救われたりと、写真から感じたところがあるのです。

少年が自身に対して抱いている気持ち、以下の引用(抜粋)します。

唐突に僕は理解した。算数のややこしい計算式がぱっととけるみたいに。

この人におかあさんという役割は似合ってないのだ。

(中略)

この場所を家っぽくしているのは、ぼくでもこの女の人でもなくて、母子という関係でもない、いくつもある無意味なルール、それだけだ。

ぼくに十二歳という年齢はあってないよ。小学校にいるぼくは場違いのきわみなんだ。

「トリップ」(秋のひまわり) P181~182より引用(抜粋)いたしました。

ここの文章を読んでようやく、本も中盤を過ぎてやっと頭の中に入ってきた部分です。

なんかうまくいかない肌ざわりというのか、布団に入ってもしっくり体をつつんでくれない毛布のように、その時の気持ちが、今生きている時間とあわない時があったりします。

最初にも書きましたが、私が東京で暮らすなんか漠然としたしっくりこないイメージのようなものです。

この12才の少年もそんな感覚だったのではないかと、それでもアルバムの写真をみて、彼なりに理解したと感じます。

少年がアルバム開くと、いなくなってしまった、だめだった父親が、生まれた時に一生懸命考えた子供の名前の候補を書いた紙が一緒に出てきたのです。

実際に私の家で、この前開いたアルバムにも、昔の私の名前の候補が挟んでありました。

どこの家にもあるのでしょうか、

小説でも、典生のいなくなった父は、子供が生まれた時に、文字に名前をたくさん書き起こすほど息子への気持ちがあって、子供を否定することなんてさらさらなくて、希望だってたくさんあったからだと思うのです。

この物語の少年も父親の書いた文字をみて、彼が生まれた時の、父親の気持ちを理解します。

「トリップ」読後の感想まとめになります

「トリップ」この物語は、なんとなく、もやっとした日常をかかえている人たちが、それこそ、様々な生き方を通して、どこか、ところどころでつながりがあることにやっと意味を理解しました。

それぞれの登場自分がもっていた、根底にあるなにかぼんやりとしたものは一緒だったのではないかと。

角田光代さんの本を読んで理解してしまいました。

2004年の作品なので今までブログで感想を書いた中では昔の方の作品でしたが、私が最初に読んだ、最近の作品はストーリーもつくり込まれていて、文字の読みやすさも変わっている感じがしました。

はじめは、読んでいた時に、いつも読む「ひき込まれる」感覚と違い、正直いうと少し退屈というか、物語の印象も重めだったのですが、個人的には「秋のひまわり」を読んで納得できました。

角田光代さんの好きなところは、きびしい、ダークな現実の描写があったとしても、最後にはやわらかく光を運んでくれる読後の感覚がわたしは「やっぱり好きだな」と感じたのです。

※すべての作品を読んでいないので、モヤモヤのまま終わる展開もあるかもしれません。

いまのところ、読んだ感覚としては、そうですね、映画のように、最後はすごいハッピーエンドという感じではないのですが、日常にあり得る感覚で、些細な日常の描写を幸せに感じさせてくれるところが好きです。

なので、この記事を読んだ方で、でもピンとこない、なんかわからないという方はそれで良い気がします。

何か本から感じる時もあるかもしれませんし、感じない時もあるかもしれません。

人ぞれぞれによって、状況が違うと思います。

ただ、落ち込んだ時に、心が少しだけでも、救われたりする本もあるんだなくらいに思っていただければと感じました。

以下、少年のマナベさん(お金を持ち逃げした男性店員)に対しての気持ちの描写になります。

いっしょにならんで橋を渡ったとき、マナベさんの言ったことはあの一瞬だけでも本当だったと思いこもうとぼくは決める。自分以外のだれかが歩む日々がよきものであるよう、だめ父が本気で祈ったように、あの持ち逃げ男も、自分とは関係のない、ひ弱な小学生の前途多難な日々が、どうか平穏であるように祈ったはずだと。

「トリップ」(秋のひまわり) P183より引用いたしました。

マナベさんはお金を持ち逃げしてしまいましたが、それまでは少年にとっては、父親の代わりになって欲しいぐらい好きな男性であり、少年がいじめられていて、そのことを母に言えなかった気持ちを理解してくれた人でもありました。

マナベさんがどういう事情でいなくなったのか、はじめからお金が目当てだったのか、魔が差してしまったのか、それはわかりませんが、少年が父親に対しての恨みを消せたように、マナベさんに対しても許せたのです。

心の底からマナベさんの行動を、許せたのかはわかりませんが、昔のアルバムを、母とみたことで、いま目の前にあった現実が打ち消されるほどの、強いメッセージを写真から感じたのではないかと思います。

写真をみて、全てを肯定することができてしまうように。

「トリップ」読後の感想まとめになります

街の景色をイメージしながら、人ぞれぞれの心象にふれることができた作品のような気がします。

その時どき、気持ちの状態、現在の状態によって、気持ちが揺れて、バランスを崩せば悪い方向に偏ってしまうこともあるかもしれません。

「トリップ」から感じたところは、本人の視点、そしてこの物語、それぞれの登場人物からの別の視点が描かれており、気づく気持ちが、様々な角度からあることを知る短編小説でした。

 

私は、ここ最近、仕事をやすんでから、家にいることがだいぶ嫌になりました。

なんだか肌で感じる、空気がしっくりとこないのです。(何やすんでいてと怒られそうです)

ただ、しっくりこない場所にずっといて、毎日その空気に包まれていたら、空気に飲み込まれだめになってしまいそうでした。

「トリップ」の読後の感想ですが、登場人物の多くが、自身の置かれた環境に「はっと」気づく場面が多い作品でした。

私が個人的に読後に感じた部分だと、「ああ、私はどこか決められた場所にいるという行為がきっとダメな人間なんだろうな」となんだか痛切に感じた部分でもありました。

それはたとえ家であっても・・・。

最近は、文字も頭に入ってこなかったので、近くの図書館に場所を移して本を読んでおりました。

そして、読み終えて、帰りに家が近づくと少し胸が痛かったりしました。

でも、また状況が変わればここ(家)も愛せる側面は生まれてくるのだろう、きっとそういう時なんだと、読後に少し経ってから、なんだか腑に落ちた気持ちになる作品でした。

長くなりましたが、「トリップ」の読後の感想になりました。

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

追記(あとがき)

この短編小説には、「きみの名は」というタイトルもありました。2001年に書かれた作品ですから、あの超大ヒット作とはまったく無縁ですが、この短編小説に入っている「君の名は」も良かったです。「有り体に言えばぼくはストーカーである」(P102)の部分は、映画の中で人の携帯をのぞく心理と似通っていた気もします。タイトルが意味するところを考えるのも面白いですね。

私も、街中でふと以前知った誰かに発見されて、その時の行動を観察され、誰かの考えに何かを与えることがあるのだろうかとふと考えたりもしました。逆に私が誰かを見た場合、いつも、あまり周りが見ていないので、目に入っても気づかないのではないかとも考えたりもしました。

 

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