嫌われても良いかなって感じる(怖いですが)「心の体力」について

個人的に感じた「嫌われる覚悟」というもの

今更ですが、全ての人に好かれるように生きていく。

そういう生き方がまあ、あたり前でした。

どうしてでしょう。

子供の頃の学校の教育、家庭環境…。

色々あるかと思います。

主にですが家庭環境などに問題があったのは事実かなと思います。

いきなり少し、おもたい内容で申し訳ありません。

ただ、これは過去のことなので、今が苦しいわけではありませので少しご安心ください。

 

親の顔色を伺うということ、そういう経験が当たり前のようにありました。

わたしが小学校に上がる頃に両親の離婚がありました。

子供の頃の昔の記憶なんて思い返してもなかなか出てくる記憶なんてありません。

幼稚園の遊具から滑って体を怪我したなど、痛みを伴う記憶があったぐらいです。

大人になって、親から、子供の頃は良く泣いただの、色々言われても自分に対しての記憶はほとんどありません。

強烈なものはやっぱり後でも残る

小さな時の記憶というのは曖昧ですが、それでも、やはり「ヤバい」という感覚は生まれながらに人には備わっているのだと。

子供の頃の記憶で、鮮明に残っている記憶があります。

父親が家の玄関から出ていく光景を…。

「どこへ行ってしまうの?また帰ってくるの?」

何と言ったか、正しい言葉は、はっきりとは覚えておりませんでしたが、母親の手を握りながら、父親がどこかへ行ってしまう。うまく説明できませんが、人間としての本能というのでしょうか、やはり普通ではないことが、雰囲気でわかりました。

ほんとに父親も困惑していた表情、空気、その時の光景はずっと昔のことなのに覚えております。

生まれてから覚えている記憶の中の順番で2番目ぐらいに強く心に残っている光景でした。

少し重たい話になってしまいましたが、今でも思い出すということはやはり今のわたしに少なからず影響している体験だったと思います。

大人になって、何をいまさらって自問することもあります。

人間はおそらくそんなに強くないので、辛い体験も忘れていくことの方が多いと思いますが、

両親の離婚にかかわらず、誰だって生きていれば、何かその人にとって強烈なつらい体験はあるはずですし、そういうのを見せずに、今の生活をしている人もたくさんいると感じます。

できないながらに、ちょっとだけ開き直ってみる

話が長くなってしまいましたが、それでもやっと生きてきて、「嫌われても良いや」って思う気持ちを知ることができたような気がします。

「嫌われる勇気」って言葉を最近良く聞きますね。

わざと嫌われる人間というのは迷惑以外の何物でもないのですが、

それまでは、生まれ持った、人から見捨てられる怖さ、大人の顔色を伺う生き方。

そんなこと、したくなくても無意識のうちにしてきたのか、やはり誰からも好かれるように、もしくは何も問題ないように波風立たせず生きているということが身についていたのだ思います。

でもやっと生き方を重ねて感じた、「嫌われてもいいや」という気持ち、最近になってそういう感情を持つことができてきたように思えました。

どうしてそうなったのになりますが、それは、もう自分のキャパに限界を感じたからというのが正しいかもしれません。

全ての人に愛想良く、優しく、そういう生き方に今更ながらやっと限界を感じたといった方が正確でしょうか。

年齢を重ねると色んなエネルギーを沢山のものに向けるのが難しくなってきます。

仕事をしながらそう最近感じるのです。

色んな事をいっぺんにできるほど脳も頭ももう若くないと。(マルチタスクっていうやつですね。)

だから人間関係も同じに感じてきました。

八方美人で生き続けていたらほんとに自分がおかしくなってしまう。

壊れてしまう。

自分を保てなくなってしまう。

心の体力に厳しさを感じました。

嫌われてもいいやと。

何度も言いますが、実際に人に嫌われるような行動をするのとは全く別な話です。

おそらくですが、うまく伝えられませんが、人から良い人だと思われるという気持ちを解放したという方が正しいかもしれません。

嫌われても良いやと感じたから、あからさまに人への態度が変わったというよりは、人からどう見られるかという、いつもわたしの中にあった気持ちを解放した。もしくはあきらめたという感覚です。

今まで生きてきた中で、考え方の癖や、人への接し方、そういう物がすぐに変わることはありません。

よっぽど開き直れる度胸というものが自分にもあれば楽に良きれるのにとはいつも思いますが。

ただ、キャパがオーバーしたというのは本当のことです。
パソコンのように脳みそがアップデートできたり、容量を増やしたりできれば、まだ
救いがあるのですが。

あまり必要のない人にかまっていると、本当に大切な人達、わたしにほんとうの愛情をくれた人達をおざなりにしてしまう。そんな気持ちを感じました。

それが、正直な気持ちかもしれません。

生きていく中でどうしても大切なもの、恋心をひそかに抱いた友人かもしれませんし、好きなことを話し合える友達。

そんなに沢山いるわけではありません。

わたしには数えるほどです。

ごく限られた、数人です。

でもそれでも、何かわたしに感動や喜びや、嬉しさなど、そういう気持ちを教えてくれた人たちを大切にしようとやっとそう思うようになりました。

できる限り心のエネルギーをその人達へ向けて生きていこうと。

無理して愛想笑いをしたり、嫌なことでも、嫌ですといえない人間関係。

全てそれにかまっていたらおそらく大切な何かを失ってしまうと本能で感じた気がしました。

わたしには子供がいませんが、もし、いたとしたら、大切な子供の為なら、先ほど書いた開き直れる度胸というのができるかもしれません。

ただ、それは体験したことがないので正しい感覚ではありませんが、

長くなりましたが、最近というか、ここ数年で感じたことをぼんやりとですが記してみました。

いつか、わたしにとっての大切な何かを、もう少し具体的にいつか書くことができればと思っております。

それでもやっぱり、嫌われたら怖いと思うことは、いつだってありますが。

 

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