毎年の習慣が突然ありがたいと思ったり「人間は不完全だ」と思ったり

毎年届く「もの」のありがたみについて

わたしが幼い時に離婚して離れて暮らす父からお盆を過ぎるといつも桃が1箱、計13個送られてきます。

毎年かかさずです。

父の実家が長野だからでした。

正直、体の体調を壊す最近までは毎年の桃の処分が大変だとすら思っておりました。

姉二人も結婚で出て行ってもなお送られてくる1箱。

量が多いのです。

例え美味しくても食べきれず腐らせてしまうこともありました。

いつしか毎年の習慣になったのでありがたみすら感じることも少なくなっていた時期もありました。

今年は送られてくるのが遅かったです。

もうこないかなって、でもなんで送ってこないのか、あまり考えたくありませんでした。

金銭的事情があるかもしれない。

もう70も過ぎている父です。

そんな心配もありましたが、田舎からの大玉な桃が届きました。

毎年、桃が送られてくる時期になると届く前に、「桃送ったらから」とメールがきます。

いつもその時に感じます。

父親として子供と話したい気持ちがあるんじゃないかと、「きっかけとして」。

今体調がすぐれないわたしには大玉で果汁の溢れいている桃はなによりの贈り物でした。

心から感謝の気持ちを伝えました。

体の具合はどうだと心配、気遣う様子はまさに父としての愛情を感じました。

不完全だと思ったら楽になってきた

いつも会うときは感謝の気持ちなんて言えなかったな。それよりも父と母が離婚したことで生まれた気持ち、ぶつけた気持ちであまり良い関係でない時もありました。

昔はほんとに、父も母も両方うらみました。

与えられた環境についての苦しみ。

でもいまはなんとなくわかるのです。

わたしも含め人間は不完全だって。

そうやって気が付けば、父も母も不完全な状態だったんだって。

いままで、親に対してそういう「許し」をすることができないわたしがありました。

生まれながらに背負った人と違う家庭環境での苦しみ、わたしの病気に対して吐き出せない感覚。

幸せであれば触れなくてもよかった苦しみの心。

でもそれも今への通過点なのだと最近やっと思いました。

親を恨むこともあれば愛を感じることもある。

恨みを知らない、ただ、与えられた愛情にほんとうに愛や幸せを感じることはできるのだろうかと。苦しみがあって幸福の存在を確認できるように。

そうやって時間をかけて今のわたしに対しての物の考えが少しずつですが変化してきました。

この先にまた想像もつかないショックなできごとや、家族、肉親に対して感じる負の気持ちも出てくるかもしれません。でもそれも含めて人生の延長線上の出来事と考えるようにすれば心の準備もできます。

一時でも愛情を与えてくれた気持ちを知っているならただ、落胆する、親を責めるそういう気持ちで終わらないと感じました。

いつか感謝の気持ちを伝えたい。

でも恥ずかしい。

手紙をかこうかなと思った最近でした。

 

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