この記事の内容には物語の内容(ネタバレ)が含みます。
もくじ
夏の旅は特別だったとあらためて感じる本
もう夏も終わったはずなのに、そんな9月のなかばに「キッドナップ・ツアー」を読書しました。
この本を読んだのは、湖畔でした。
9月も半分近くでしたが、緑の多い湖畔はまだ夏真っ盛りのような感じもしましたし、過ぎゆく季節を惜しむように蝉が鳴き続けていたようでもありました。
「キッドナップ・ツアー」は小学校高学年(5年生の少女)と、ふだん何をしているのか少し謎なお父さんとの「誘拐劇」と称した、娘と父、二人の夏の記録です。
夏の旅というのは特別で、それが小学校の時の記憶というのはいつまでも印象に残る記憶、大切なある夏の日の旅というのがこの1冊につまっておりました。
それこそいつか夏に旅をした、もしかしたら誰にでもありそうな記憶を閉じ込めてくれた本でした。
夏の季節にぴったりの1冊でした
湖の近くで本をめくる。
ちょっと歩くと、バッタがまるで宙に浮くように移動する。
そんなある9月の中頃に読みました。
正確にいうともう秋でして、真夏に読書したわけではありません。
陽がさす少し曇り気味の日、8月末の猛暑の感覚は過ぎて、まったく暑くない日でした。
汗もかかないし風も乾いて秋を感じる日でした。
陽がやわらかくトンボも飛んでいる。
そんな時期に読書をした「キッドナップ・ツアー」まだかろうじて夏の季節を感じるとき、そんな空気のなかで読むことができてよかった1冊です。
まるで主人公の少女ハルの夏の思い出をめくり、思い出すような気持ちで読書が進みました。
キッドナップ=誘拐、ひとさらい ツアー=小旅行
小説のタイトルの意味では、誘拐された小旅行というような感じでしょうか。
この物語は、主人公のハルが小学校の時、ほとんど知らない父との「誘拐劇と称した旅行」によってハルが成長していく物語です。
カテゴリーとしては児童文学ですが、大人が読んでも楽しい作品です。
やっぱり夏はいつだって特別な季節と感じました
どうして夏の旅は特別に感じるのでしょうか、春の旅、秋の旅、冬の旅、どれもその時は楽しいのですが思い出として強く印象に残るのは個人的に「夏」です。
生命のいきおいが感じらるからでしょうか、陽が長く活動的でいられる季節、
夏の海、山、街はどれもキラキラした印象が強いです。
「キッドナップ・ツアー」を読んだ日は、湖畔の堤防に行った日でした。
遠くには、湖の向こうに山々が見えました。
その日は少し曇っていましたが陽射しが強くなると心なしか、光の強さと一緒に強く鳴き始める蝉の声、
平日、午前の湖畔は人が少なく、ほんとうに穏やかでのんびりしておりました。
たまにカメラを持って風景を写す人がいたり、カップルがデッキで話していたりして、景色を眺めながらふらふら歩くと、ふと屋根つきのベンチがある休憩所がありました。
読書には絶好の場所でした。
本を読むために来ていたわけではなかったのですが、あまりに気候と雰囲気が良くてかばんの中にあった本を取り出したら思った以上に読み進みました。
聞こえてくるのは、蝉の声や、遠くはなれた場所でアウトドアをしながら食事をしている家族の話し声がたまに耳に入るだけ。
静かで落ちついた、屋根つきの休憩所でした。
しばらく本を読んでいると、杖をついたおじさんがやってきました。
最初は中央の広い正方形のベンチともテーブルとも見えるところに腰をかけて、ペットボトルのお茶を飲みながら休んでいました。
しだいにそのおじさんは、中央のベンチ?の部分で仰向けになりながらお昼寝をしはじめました。
たしかにその日は、過ごしやすい日だったので陽も当たらないベンチでのお昼寝には最適の日でした。
こちらも本を読みながらだんだんリラックスしてきます。
物語の内容も、主人公のハルとお父さんとの誘拐劇がだんだん様(さま)になってきて、最初はよそよそしい他人のような二人が、娘と父になっていく姿が面白かったです。
おじさんが仰向けで寝始めたので、こちらも本に夢中になりリラックスしてきました。
こんな湖畔の公園の屋根付きベンチにくる人たちは散歩する人ぐらいなので、ほんとうにたまにしか人が通りませんでした。
ですのでどんな格好で読んでも気にならず、
私は横長いベンチで仰向けになったり、横になって片腕でまくらをつくって少し行儀悪いですが本を読んだり、最終的には柱にもたれかかって読むのがいちばん良いってわかってきたりして、
暑くも寒くもなく自然に囲まれた中で本を読むことがとても落ち着きました。
ふと気づくと鳥の声もたくさん聞こえる。
読んでる「キッドナップ・ツアー」のハルとお父さんとの誘拐劇も楽しく、このあとどうなるのだろうと気になりながらどんどん読み進みます。
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「キッドナップ・ツアー」を読んで感じたところ 男性像について
角田光代さんの作品を読んで感じるところ、他の作品で登場する男性というのは人間味が薄い、ひとことでいうと「情が薄い」男性が多いなと感じます。
例えば、「対岸の彼女」の小夜子の旦那、「紙の月」の梨花の旦那、「八日目の蝉」の希和子の不倫相手、みな主人公の相手である男性は、どこか冷たいくて人間味がない。
合理的なようで薄情でそう感じる男性人物が多いのですが、
この「キッドナップ・ツアー」で登場するハルのお父さん(名前なし)は少し違って、とても良い印象の人物というか父親像でした。
読み進めると、ハルの父親はしっかりしてないお父さんだとしだいにわかってきます。
それでも完璧でないことでの人間味の豊かさを感じたり、だいたいどんな仕事についているのかも最後まで不明なお父さんでした。
不思議なところ、ミステリアスな人物でもありますが、ハルとこのお父さんとの「誘拐劇」が楽しい物語です。
ハルはこの少し頼りない父と色々なものに触れてたくさんの感情に出会います。
真夏の夜の海に二人で沖にでながら海に浮かぶ描写、さんざん歩いで山の上の宿坊にたどり着き聞かされる真夜中の怪談、
どれも考えれば夏という季節だから体験できる「非日常」であってとても特別な時間だと感じます。
子供というのはそういった、はじめてみる、出会う風景や心象に敏感だと感じます。
ふだん家で会わない父、もう出て行ってしまったような父と何日か過ごす夏の日というのはやはり特別です。
いつも見える日常、いつも一緒に過ごす母の姿とはまったく違う世界観をもった人間、ものの視点、捉え方、
それはハルにとっては、ふだんあまり一緒にいない人間(父親)だからこそ、そのひとを通してみえる世界というのはより際立っているのではないでしょうか。
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物語終盤にかけて ハルの成長 親と子、ひととの距離感について
「キッドナップ・ツアー」の読書が半分になり、時計も13時過ぎ、お腹も空きましたがこの落ち着いた雰囲気の環境でこの物語を「ここ」(湖畔の公園)で読み終えたい。
そういった気持ちになってきました。
だけど喉が乾いてきます。
駐車場にそういえば自販機があったなと、いったん本を読んでいる休憩所を離れて飲み物を買いに行く。
戻ってきた時に休憩所の中央のところで寝転がっていたおじさんが立ち上がって別のところに行こうとしてました。
少し挨拶をしました。
「過ごしやすいですね」とお互いに話しておじさんは去っていきました。
「キッドナップ・ツアー」を読破するにはここからひとり旅になります。
もっともっと読書に集中しました。
「一番楽しいのはさ、かごにぽんぽん入れているときだけだもん、そんなに買ったって、二人じゃ食べきれないし。さっきものすごく楽しかったから、べつにいいよ」
「キッドナップ・ツアー」P147から引用いたしました。
主人公のハルがありとあらゆるワクワクをスーパーのカートに詰めていざレジで支払いをしようとしたところ、誘拐劇も終盤となりお金も少なくなってカゴの中身を買うことができなかった父。
いままでのハルであればそんな情けない父に心のなかで文句を言っていたはずでしたが、「買い物をするという過程」を楽しむことをおぼえ成長していきます。
そうやって父と二人、旅のなかで変わっていくハルの姿が好きでした。
物の豊かさよりも心の豊かさ、物語はじめよりお父さんのふところ具合は寂しくなりましたが、どんどん「ハル」の心が豊かになっていく、そんな描写が好きでした。
「キッドナップ・ツアー」は少し切ない、ちょっと感傷的に感じる描写も好きです。
また、このスーパーでの買い物のやり取り、「申し訳ない、大臣」(P147)とお父さんがハルに全て買い物ができずに謝るのですが、ここのやりとり、
それがいわゆる親と子の関係にみえない、
だけどなぜかそんな少し離れた関係性、距離感が「しっくりくる」「安心する」そんな感情が読んでいて湧いてきました。
親と子なんだけど、どこか人間として「線引き」ができていて、それぞれが自立した「個」である。
だから何か安心する関係。
深く知った友人のような、旧知の仲のような関係。
そんな不思議だけどしっくりくる親子関係。
きっと、ずっと一緒に毎日、顔をあわして暮らしていたらこんな関係はないんだと思いました。
親でも、あと大好きな人でもたまに会ったりするのが良いのかしれません。
きっとその方が嫌なところをみなくて済むというか、きっとまだまだお互いのことを知ろうとする部分がたくさん残っているからワクワクするというか、そんな気もするのです。
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あまり正確に書かれてはいないけど感じたハルの気持ち
この物語は娘と父、二人の関係を軸として書かれております。
ただ、後半で読んでいて感じたもうひとつの感じた部分にです。
物語後半はお金もなくなってバーベキュー場でもテントをゴミ捨て場から拾ってきたりとさんざんな誘拐劇になります。
火をうまくつけれない父、なぐさめるハル、壊れたテントを探しはじめる父に再度失望するハルとひもじい逃亡劇のなかにもコミカルな描写があり読みながらクスっとしてしまいます。
どちらが大人なのか、そんな感じすらします。
偽物の誘拐劇ですが、ハルが父親にだんだん同情したり気持ちを開く部分はさながら誘拐された人が犯人に同調するストックホルム症候群みたいだと感じました。
物語後半にかけて感じた部分、この物語ではほとんど登場しないハルの母親、
きっとハルはお母さんのことが嫌いなのだろうとなんとなく、そう感じました。
それは、先ほども書きましたが、ハルとお父さんの二人の関係が、どこか親子なのに、それぞれが適度な距離感であって、自立している個であるのに対して、ハルとお母さんの部分は少し距離が近く、もしかしたらハルに干渉的なお母さんなのかなと感じた部分です。(詳しい描写が物語にはありませんでした。)
ただ、物語を読んだ想像のなかでは、ハルの父と母は離婚もしくは、別居をしている、そしてハルとお母さんの二人の暮らしはどこか距離が近く行き詰る生活だったのではないかと感じます。
「キッドナップ・ツアー」感想 まとめになります 過ぎ行く特別な夏の感情
「キッドナップ・ツアー」感想文、まとめになります。
この夏休みが終わるのがイヤだ。
夏が過ぎるのがイヤだ。
こんなに特別な時が過ぎるのはイヤだ。
まるで夏は魔法のような時間がほんとうに過ぎ去る。
そんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
私は父といつか二人で行った長野の旅行を思い出しました。
離れて暮らす父はふと家にやってきて長野に行こうと言いました。
私の家に置いてあった、運転嫌いな母がほとんど使わない廃車寸前の軽のマニュアル車でトコトコとほとんど高速も使わず、わざと時間をかけて回り道をして長野を目指しました。
AMラジオしかついてないような車だったので、家にあった電池で動くカセットプレーヤーを持っていき、片耳イヤホンで父の運転に揺られながら音楽を聴いていたのを思い出します。
そして夜中に野辺山あたりについて星を見る。
父は星空など興味もないので車の中で休憩がてらラジオを聴きながら寝ておりました。
途中で明かりがほしいと父に合図して車のライトを灯けてもらう。
星を見終わったら、また北へ向けてトコトコと軽のマニュアル車で走る。
車もすれ違わない真っ暗な山道のなか、AMラジオから流れる「舟歌」の「沖の鴎に深酒させてヨ」の部分で、ふだん歌もうたわない無口な父がその歌詞を口ずさんだのは印象的でした。
きっと軽のマニュアル車でトコトコわざとゆっくり遠くまで行くのは、その時の父もなにか理由があったのだと今思えば感じます。
何か私には知らないつらいことが、たとえば仕事かもしれませんし、父が暮らしているところでなにかあったのかと。
そういえばあの頃、父は仕事を変えていたような記憶があります。
いつか父が旅をすることについて言っておりました。
旅というのは、遠くに行くだけでなくて、今ある現実から離れて知らないことをについて考える。悩んでいることも忘れたり、そのことからはなれて考えるためにあるんじゃないかって。(少し記憶があいまいですがこんなことを言っておりました。)
そんな感じで長野についたのは真夜中でした。
東の空には季節外れのオリオン座が傾きながら姿を見せておりました。
「キッドナップ・ツアー」を読んだ時、なぜかこの記憶を思い出しました。
きっと大切な誰にでもある誘拐劇を思い出したり、印象に残る夏のひと旅を思い出す。
そんな物語でした。
子供の頃の夏の大切な日ってこんな感じだと思うのです。
引用が前後しますがハルの言葉で印象に残ったところがここでした。
もう一日だけ、たった一日でいいから、昨日とそっくり同じ日がほしかった。
「キッドナップ・ツアー」P72から引用いたしました。
誰にでもそんな過ぎて欲しくない子供の頃の大切な夏の日がありませんでしょうか。
私はこの本を読んで父と出かけたことを思い出しました。
それだけ個人的に夏の記憶、旅の記憶というのは強いです。
夏は力のある季節です。
鮮やかな夏、綺麗な夏、空が眩しい夏、楽しかった夏、でも少し儚い夏。
そんな子供の頃の記憶を呼び起こす一冊でした。
15時半くらいに湖畔での読書が終わりました。
ずっと読書に集中しており、最後はトイレに行きたくなりました。
陽は秋っぽく傾き、それって、まるで、小説の最後、ハルと父との別れのようでした。
少し名残おしい夏の雰囲気を感じながら堤防をあとにしました。
「キッドナップ・ツアー」は、そんな子供の頃の特別な夏の感覚を思い出す1冊でした。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。
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