例えばお皿洗い
私は料理は下手です。
今までの記事でも書きましたが、楽しみのひとつでもある食事は美味しく頂いただきますが、それを作るとなると正直センスを疑われるかもしれません。
自分で作って消化するのであれば問題ないのですが、なんとかその晩御飯に参加できないかと。
色々考えたなかで私の中では食後のお皿洗いになってしまいました。
そのお皿洗いが得意とかではないのですが結局行き着く先がお皿洗いになってしまいました。
それも料理の一部じゃないかと
でも、そんなお皿洗いも日々こつこつやっていると、毎日食べているご飯にも参加している気持ちには少しはなります。
とくに、私は夏場の虫がかなり苦手なので、
どうしてもそれを阻止しようとするので食べたあとの野菜の皮ですとか細かなものをかなり密閉して廃棄します。
ビニールに2重・3重にすることでそういう夏場の悩みも解決しました。
いま10月ですが乗り切れそうです。
食べ終わったらすぐに片づける。
これは習慣づけました。
でないとほんとにあとあと面倒くさくなる。
それとコンロもできるだけ拭きます。
美味しいご飯への感謝です。
正直料理をつくる母はあまりそういう細かな作業とか掃除のようなものが得意とは思えないのですが、もうそういう場合はこっちがやるしかありません。
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「自分にできることからやってみることかな」
まあいまさらと料理についてはコツコツと今後はやるしかないのですが、
そういう中でもじゃあ自分にできることはなんなのだろうと考えると、お皿洗いですとか、コンロや流しを拭いたりですとかそういうところに行き着きました。
なにかできない時、行き詰った時に、ある人からいただいた言葉、
私はTwitterで昔に某方に(そこは匿名とさせていただきます。すみません・・・)心が苦しい旨をお伝えしたことがありました。いま思うとそういうことはあまりしないのですが、なんででしょうか、心が切羽詰まっていたからでしょうか。
でもその切羽詰まったことが伝わったのでしょうか、
後にも先にもこれは不思議な感覚です。
自分でもなんでそなことをつぶやいたのだろうと。
でもリプライが返ってきたのですね。
「簡単にできることからでいいから、一つやってみることかな」
(いただいた文面はすこし変えております)
この言葉はいまでも心の中に響ます。
簡単でシンプルな言葉ですが、それが逆にとても深みのある言葉だとあとあと理解しました。
苦しい時っていうのはそういう言葉でもすぐには理解できないかもしれません。でもあとあと理解できたからこそ大切な言葉の一つとなりました。
言葉でもなんでもそうですが、すぐ効く特効薬というのはリスクもある危険なものです。
食事のお皿洗いでもそうですが、自分が料理に参加できないのであればできることを考える。例えば他の場面でもそんな気持ちがします。
何かに迷ったとき、つまずいたとき、何もできないと考えてしまう時、
この言葉に助けられました。
自分にできる簡単なことからやり始める。
それをコツコツと少しずつ、自分の成功体験として積み上げていく。
そうすることで、少なくとも少しずつ自分を認めることができてきます。
たまには自分自身を認められなくなるほど落ち込むこともあります。
どうしようもなく自分が嫌になることがあります。
生きていく中では思い通りにならないこともあったり、つまずいたりすることは多々あります。
人にはできて自分には簡単にできないと感じてしまうこともあります。
でも、そういう時は、今自分ができること、一つでも良いのでそれからやってみる。
例えば、掃除とかもそうです。
あまり好きな、得意な方ではないのですが、
ここは片づけられそうかなって、そうやって、ああできた!って思えば、気が向けば、別のところにとりかかることもできるかもしれません。
これはあくまで気が向けばで良いのです。
他もとか欲をだしたりすると、またできない自分と対面することになってしまします。
私はそれで何度も自分自身を再び、自身の心の谷底へ突き落したことがあります。
すこしずつでも、できることを積み上げていく、そういうことで、いつかそれが一つの大きなものになることがあるかもしれません。
まだ私はそんなに深い人間ではないので、じゃあそれって何って聞かれても、お答えできないのですが、生きているうちに一度でも見ることができれば、それで良いんじゃないかって思ったりもするんです。
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